『一冊まるごと渡部昇一』

Pocket

渡部昇一

人生を長いスパンでとらえると、好調のリズムにあるときと不調のリズムにあるときがあります。私は書斎の人間ですから、好調、不調といってもリズムの振幅はそれほどではありませんが、政治や経済の世界に生きる人は、相当の揺れの幅があるでしょう。
好調のリズムにあるときは問題はありません。その波に乗っていけばいいのです。では、不調のリズムに陥ったときはどうすればいいか。まったく不当に社長の座を追われたという人に会ったことがあります。話題はすぐに社長の座を追われたことになり、その人はいかに理不尽ないきさつでそうなったかを綿々と述べます。私はなんだか鬱陶しい気分になってしまいました。あとで聞くと、その人は口を開けばその話ばかりなのだそうです。その人には社長の座を追われたことは忘れない鮮明な記憶なのでしょう。しかし、その話を聞かされる側は、そう言われればそういうこともあったかなという程度の記憶しかないものなのです。
好調のリズムに乗っているときはよく目立ちます。しかし、不調のリズムに陥っているときは、まわりはその人が不調のリズムに陥っていることさえ気づかない場合がしばしばです。人間の他人に対する関心とはそのようなものです。その人は決して復活することはないだろうな、と私は思いました。他人が忘れているようなことをいい立てるのは、不調のリズムの振幅をわざわざ大きくするようなものだからです。事実、その人が復活したという話は、いまだに聞きません。

■三井の益田鈍翁は、中上川彦次郎によって経営の中枢から遠ざけられた時期がありました。そのとき、鈍翁はどうしていたか、お茶を楽しんでいました。そして中上川が行き詰まったとき、復活を果たすのです。

■イギリスの名宰相チャーチルも若い時から好不調の振幅が大きい人でした。困難に耐えて対独戦を指導し、ついに勝利を手にした最大の功労者です。それが勝利をつかんだ直後の選挙で落選してしまうのです。
そのときチャーチルはどうしていたか。絵を描いたリ歴史を書いたりしていました。そして次の選挙で復活し、首相の座に再登場することになるのです。彼の生涯はそのパターンの繰り返しでした。不調のリズムに陥ったとき、それを恨み、こだわっていては、かえって不調の振幅を大きくし、その波に飲み込まれて視野を狭くしてしまいます。腐らず恨まずこだわらず、距離を置いて余裕を持つ技術が大切です。それが鈍翁にとってはお茶であり、チャーチルにとっては絵や著述だったのです。その技術があれば目配りがきき、有効な戦略を備えることができて、好調なリズムに変えるチャンスがきたときに、逃さずにものにできるのです。

■松原泰道師(つまずくことが多い人ほど、大きなものを掴んで成功している。 日本人への遺言 )より
『元外務大臣で戦犯になった広田弘毅さんが、外務省の欧米局長のときに後の首相、幣原喜重郎に嫌われて人事異動でオランダ公使に飛ばされるんです。当時はオランダと日本は通商がなかったので、この移動は左遷でした。皆はこれを心配しましたが、当の本人は平気のへっちゃら。そのときの心境を得意の狂句で吟んでいます。 「風車 風が吹くまで 昼寝かな」 風車はオランダのトレードマーク。オランダは風車が有名、風車は風が吹かないとどうにも仕方がない、風が吹くまで昼寝かな、と詠んだわけですね。
彼はのほほんとしていたけれども本当に昼寝をしていたわけではもちろんありません。その逆境時に、外交的ないろんな情報を集めて勉強するんです。そして再び中央に戻ってソ連の大使になったときに、その成果を発揮して成功を収めたのです。彼は機が熟するのを待ったわけです。慌てることなく、じっくりと。物事にはいいときも悪いときも必ず“流れ”がある。 これに抵抗してはダメだと思うのです。無理して慌ててもいい結果は得られません。たとえ逆境の中だろと腐らずにいれば必ずチャンスはやってくる。そのときのために努力を続けること』
広田弘毅は、第32代の内閣総理大臣になった。逆境のときに、まわりに、文句や不平不満を言う人は、それを自分の肥やしにして、飛躍することはできない。人は、逆境のときや、職を退くときの、対応や態度によって人間の器の大きさがわかる。不調のリズムに陥っているとき…腐らず、文句を言わず、飄々と生きてみよう。

エンシンオイル、メーカー、OEM仲間の経営塾

Pocket

わが人生に刻む言葉

Pocket

ウシオ電機会長、牛尾治朗

かつて、修業とか修養とかは精神的に豊かであるために、つまり人間が人間らしく暮らしていくために必然のものでした。そうでなければ、ともすれば不足、不便がつきまとう暮らしに押しつぶされて、人間らしく生きられなかったからです。
だが、何もかもが満ち足りて便利になると、人間は自分を鍛えることを放棄してしまった。自分の精神のありようがどうだろうと、物質的な豊かさや便利さが補いをつけてくれるからだ。少し持って回った言い方をすると、精神の物質化ということになります。修業したり修養を積んだりして自分を鍛えることが疎かになると、自分を見つめることが少なくなりますから、人間はどうしても自分に甘くなります。謙虚さが失われます。その結果として、自分中心になりがちです。自分に甘く、謙虚さがなく、自分中心の考え方をし、行動をとる。
最近、そういう傾向が強まっているのは、精神を物質化させ、それでよしとしている風潮と無関係ではない。残念ながら、政界や財界のリーダーと目される人びとにも、出処進退に関してそういうことが間々見られます。

■「春風を以(もっ)て人に接し、秋霜(しゅうそう)を以て自ら粛(つつし)む」江戸時代の儒者・佐藤一斉の『言志四録』より。
人に対するときは春風のように穏やかで和やかな心、伸びやかで寛大な心で接し、自分に対するときは秋の霜(しも)のように鋭く烈(はげ)しく厳しい心で律していかなければならない、という意です。対人関係の基本にこの心がけを据えることができる人は、修業や修養によって自分を厳しく鍛えている人です。だが、現実にはこの逆の人が増えているように思われます。人には秋霜の心で接し、自分に春風の心で対する人です。何か問題が起こると、その原因や責任は他人のせいにして、自分には関わりがないとばかり顔を拭ってやり過ごそうとする人が何と多いことか。自分に対して春風の心でいるから、そうなるのです。

■「秋霜烈日(しゅうそうれつじつ)」これは、秋の冷たい霜や、夏の焼けつく激しい日差しのような、厳しい気候のことをいう。
刑罰や権威などが極めて厳しくおごそかであることを指す。日本の検察官のバッジのデザインともなっている。しかしながら、普段人と接するときは、これとは反対の言葉、「春風駘蕩(しゅんぷうたいとう)」でなければならない。春風駘蕩とは、春風がそよそよと気持よく吹くことをいい、温和で、のんびりとして、のどかな人柄をさす。そして、自分に対しては「秋霜烈日」で厳しく律していく。シビアな自己コントロールだ。それを「自律」という。

エンシンオイル、メーカー、OEM仲間の経営塾

Pocket