『運のある人、運のない人』

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中谷彰宏

運のない人は、「自分はそこそこ努力しているんですが、
うまくいきません。どうしたらいいんでしょう」と言います。
この言葉自体、おかしいのです。

本当に努力している人は、「努力しています」とか
「こんなに努力しているのに」とは言いません。
そういうことを言わない人のほうが、
実際はたくさん努力しているのです。

「努力しています」と言うのは、
「努力したから許してね」という甘えになります。
または、「こんなに努力しているのに、
なんでうまくいかないんだ」と、逆恨みが起こります。

本当に努力している人は、自分の努力と工夫が
まだ足りないと考えています。

「努力しています」という言う人は、
ほかの人の努力や工夫が見えていません。
「自分のほうが努力している」
「自分はこれだけやっているのに」と文句を言うのです。

日本人が好きな英語のフレーズに「do my best」があります。
運のある人は「do my best」とは言いません。
「I’ll do my best」は、やる前から言いわけをしています。
「全力を尽くしますから、結果がでなくても許してくださいね」
ということです。

運のある人は、「やるだけやってみます」とは言いません。
ひと言、「やりましょう」とだけ言います。
ゴールを目指して、ひたすら突き進むのです。

世界中を見渡してみれば、自分よりもっと、
努力している人や、一生懸命やっている人は、ゴマンといる。
それを知らずに、「努力しています」と言うのは
とても恥ずかしいことだ。
そう思うなら、「自分はまだまだだな」と謙虚になれる。

エンジンオイル、OEM仲間の経営塾より

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やる気があふれて、止まらない

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早川勝

《ユーモアで人を笑わせると「やる気ホルモン」が分泌される》

これまで私がブレることなく「やる気モード」を持続させることができたのは、いついかなる場所、どんなときであっても、
周囲の人たちを笑わせてきたからに他ならない。

とにかく大優先で、目の前の相手を楽しい気分にさせる
サービス精神のもと、常にその場を盛り上げる
エンターティナーを演じてきた。

よって、上司や部下、お客様や取引先、友人や知人など、
周囲からの私への評価は、「おもしろい人」「話術が巧みな人」
「パワフルな人」である。

ただ、意外に思われるかもしれないが、
幼少期の私への評価は、「控え目な子」「真面目な子」
「無口な子」であった。

だから、ユーモアのセンスや卓越したトークスキルというのは、
決して天賦の才ではない。

思春期から現在に至るまで、私は意識的に努力して
お笑い芸を磨き、自己改革を続けてきたのだ。

なぜなら、人を楽しませる行為こそが、
自らの「やる気ホルモン」を活性化させる
最も効果的な手段であることに気づいたからだ。

明るく元気になったその相手から、お返しとして、
さらなる「やる気」パワーをもらってきたのである。

それはもう計り知れないほど、
モチベーションアップへの相乗効果は絶大であった。

みんなでお互いを明るく楽しませ合い、
笑って過ごすことができれば、知らず識らずのうちに、
仲間が増え、ますます「やる気」があふれて止まらなくなる。

それこそ笑いが止まらない話ではないだろうか。

自分の力だけで成功したなどと豪語している輩は、
驕(おご)り以外の何ものでもない。

やはり人生は、どれだけ人に支援してもらえるかが
成功の鍵を握っているのだ。
あなたの笑わせる行為こそが、
あなたの応援団をより強力な味方にしていく。

より確かなのは、私が人を笑わせれば笑わせるほど、
成功に次ぐ成功が訪れたという事実だ。

周囲を楽しませてきたおかげで、
私はあらゆる営業コンテストに次々と入賞し、
物凄いスピードで昇給・昇格を果たすことができた。
大笑いしながら人生のステージが上がっていったのだ。

そうして、その芸の道が、私の最も大切な仕事と
なっていったのである。

〇ケンタッキー・フライド・チキン創業者、
カーネル・サンダース
《他の人に一生懸命サービスする人が、
最も利益を得る人物である》

もちろんサービス精神とは笑わせることだけに限らないが、
どうせ一生懸命サービスするなら、
楽しいほうが喜んでもらえるではないか。

「楽しいんでほしい」という、
おもてなしのサービス精神なくして、
自らが利益を得ることはあり得ない。
それが大原則だ。

「自分だけ楽しければよい」ではなく、
常に「他人をどれだけ楽しませるか」ということに
気を配っておくことである。

世界中の成功者たちを思い出してほしい。
彼らのほとんどはウイットにとんだユーモアに長け、
いつもジョークを飛ばしている。

余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)の
スマートな佇(たたず)まいで、
周囲の人々を笑いの花束で包んでくれる。

人に好かれる人は、人を楽しませることに徹している人。
そういう人は、傍(はた)からみていると
いつも上機嫌に見える。

反対に、自分だけが楽しんでいる自己中心的な人は、
周りからみると気難しくて不機嫌そうにみえる。

笑いという「上機嫌」は肯定であり、
笑わないという「不機嫌」は否定だ。
周りの人を否定する人には、人は寄りつかない。

そして、我々は、道を聞くときでも、
笑っている人や機嫌のいい人を探す。
笑いが人を引き寄せるからだ。

人を笑わせると、自分も明るくなって、笑顔になる。
人を笑わせることで、自分もパワーをもらえるからだ。
その逆に、人を怒ったりすると、
テンションが落ち、パワーがなくなる。

エンジンオイル、OEM仲間の経営塾より

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必ず!プラス思考になる法則

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精神科医、和田秀樹

私は「いい事もあったんだ」という考え方が好きです。

望まない部署に異動になってしまった、
大きなプロジェクトが成果も出せずに解散してしまった、
三年がかりで挑戦してきた資格試験に今年も失敗してしまった…
そういった、挫折感を味わって当然の経験のあとで、
「でもいい事もあったんだ」と考える人なら、
いつまでも落ち込んでいないで
新しい意欲を取り戻すことができるからです。

配置転換されても仕事に恵まれた時期がありました。
プロジェクトは解散しても
信頼できるパートナーと出会えました。
試験は失敗しても去年より手ごたえを感じました。

すべて、結果は「不運」でも
自分が得たものはたしかにあるのです。
そのことに気がつく人も、幸せ探しの上手な人です。
身のまわりに幸せ感を見つけやすい人です。

悪いことの中にも「いい事があった」と思える人は、
どういう経験をしてもそれを自分にプラスと
考えることができます。
どんなに失敗だらけの日々が続いても、
そのことで自分が後退してしまったとは思いません。

実際、ビジネスで大きな成功を収めるような人でも、
不運続きの時代や不遇な日々が必ずあるものです。

新しい事業に手を出しては立て続けに失敗したり、
サラリーマンの場合にも系列会社や
採算の取れない部門に回されて
「これまでだな」と挫折感を味わったりしています。
しかし彼らは、そういった日々を
自分の不幸な時代とは受け止めません。
なぜなら、どんなに失敗や挫折感を味わっても、
その中には「いい事もあった」と受け止めるからです。

事業には失敗しても、つぎの成功につながる
ヒントが見つかった。
読み違えはあっても着眼の正しさは確信できた。
サラリーマン不遇の時代にも、エリートコースにいては
経験できない実務や販売の苦心、コストの無駄を
学ぶことができた。
不遇な時代を経験したから、
部下の気持ちがつかめるようになった…。

そういったことがすべて、自分にとってのプラス材料と
思える人が、どんな逆境にあっても
前向きな気持ちを失わずにやっていけます。
落ち込まずに意欲を持ち続けることができます。
だから大きな成功を収めることができたのです。

〇「私は自分の障害に感謝しています。
自分を見出し、生涯の仕事に出会えたのも
この障害のおかげだからです」
ヘレン・ケラー

今がどんなにひどくて最悪だと思える環境だとしても、
ヘレン・ケラーのことを考えたら誰もが黙るはず。

どんな人であろうと、ちゃんと探せば
身近に感謝すべきことはいくらでもある。
歩くことができて幸せ。
息ができて幸せ。
笑うことができて幸せ。
そして、今この瞬間、生きていて幸せ…。

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自分を変える心の磨き方

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マーク・ポネ

ある年老いたヒンドゥー教の師は、
一人の若い弟子が不平ばかり言うのにうんざりしていました。
それである朝、その弟子に塩を買いにいくように
言いつけました。
弟子が戻ると、師はコップ一杯の水に、
ひと握りの塩を入れて飲んでみなさいと言いました。

「どんな味がしたかな」と師が尋ねました。
「塩辛いです」と言って、弟子は塩水を吐き出しました。
師はクスリと笑い、同じひと握りの塩を持って、
弟子を湖に連れて行き、それを湖の中に撒くように指示し、
そして湖の水を飲んでみるよう言いました。

弟子のあごから水がしたたり落ちるのを見て、師は尋ねました。
「どんな味がしたかな」
「真水です」と弟子は答えました。
「塩の味はしたか」
「いいえ」

その答えを聞いて、師は昔の自分とよく似ている弟子と
並んで腰を下ろし、こう諭しました。

「人生の苦労とは、塩のようなものだ。
それ以上でもそれ以下でもない。
苦労の量はいつも同じだ。
まったく同じなのだ。
だが、私たちが味わう苦さは、
その苦労を入れる器の大きさによって決まる。

だから、苦しい目にあったときは、
物事を感じる自分の度量を大きくするしかないのだ。
コップではなく、湖になりなさい」

〇『「あれは器量人だ」という言葉が
通俗用語になっておりますが、
これは人間の具体的存在を
器という字で表現しているもので、
人間の大きさ、深さを量(はか)る言葉として
用いている言葉であります。

あれは頭が良い、よく出来る。
けれども人を容(い)れない。
人を用いる量がない。
深みがないなどといわれる人があります。

度量、器量ということが
よく考えられなければならないわけです』
《安岡正篤一日一言》より

エンジンオイル、OEM仲間の経営塾より

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『斎藤一人 そのままの自分でいいんだよ』

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宮本真由美

この世の中にはね、ざっくり分けると《立派タイプ》と
《すごいタイプ》の人がいるの。
この2つのタイプはぜんぜん生き方がちがうんだよ。

《立派タイプ》というのは、「私は英語が苦手なので
がんばって勉強します」とか、
「遊びに行くのはやめて年中無休で仕事をがんばります」
とかって、いちいち立派なことを言って生きている。
そして、やりたくないこともムリして、
がんばってやっちゃうタイプ。

もう1つの《すごいタイプ》というのは
立派に生きることができないの(笑)。
立派に生きるとこわれちゃうんだよ(笑)

《すごいタイプ》は、自分のできる範囲内のやれることをやる。
そして、やりたいことを1個やって、
やりたくないことを1個やめる。

とにかく、真面目に生きてて機嫌が悪いなら、
不真面目でも明るい笑顔で機嫌がいいほうが
よっぽどいいんだよ。

そう思ったら月1回は映画を観に行こうとか、
年に1回は海外旅行しようとかって、
やりたいことをやっているほうが、
いつもごきげんだし、うまくいくんだよ。
それでしあわせに向かっていくのが
《すごいタイプ》の生き方なの。

《立派タイプ》は、できないことをできるようになろうと、
いっしょうけんめい努力する。
ところが《すごいタイプ》は努力しない。
その代わり、できる人にお願いするの。

《すごいタイプ》は、上に立てば立つほど力を発揮する。
なぜかっていうと、《すごいタイプ》とは“他力(たりき)”なの。
その逆に、他力はいけないとおもって、
何でも自力でやろうとするのが《立派タイプ》なの。

だけど、エジプトのピラミッドだろうが、
万里の長城だろうが、自力でできたものなんて1つもないんだよ。
ぜんぶ他力なの。
この世の中というのは、自分が頑張ってできることは、
せいぜい人の倍。
ところが、他力を集めると、1000倍でも1万倍でもできるの。

オレは人生でこんなにもすごい成功をおさめたけれど、
自分でやった努力は1%以下かもしれない。
いろんなものはひらめきでくるけど、
このひらめきですら他力なんだよ。

ただし、他力だけで生きようとおもっても、
人は誰にでもホイホイと他力を出してくれる
わけじゃないんだよ。

だって、人のために何もしないヤツのために、
やってやろうなんて気が起きるわけがないんだよ。
人はだれでも、そういうヤツはキライなの。
だから、笑顔で「ありがとう」「感謝しているよ」って言う。
そして、自分が得意なことはやってあげる。
そうやって助けたり、教えたり、補いあっているから、
自然と他力が集まってくるんだ。

21世紀は「魂の時代」だから、
頭で考える《立派タイプ》よりも、
ハートで考える《すごいタイプ》のほうが、
なぜかうまくいくんだよ。

仕事がうまくいかない、人間関係がうまくいかない、
人生がうまくいかないという人は、頭で考えちゃっているの。

ここで特別の「1%の努力で100%の効果を出せる」
すごい人の極意を教えるよ。
1%の努力ってなんだと思う?
たった2つのことなんだよ。

1つ目は、顔に愛嬌があること。
2つ目は、人から愛されることを、言葉にして言っていること。

なんですかっていうと、笑顔でいるとか、愛想がいいとか、
人の肩の荷がおりることを言うとか、
人が喜ぶようなことを言うとか、そういうことだよ。
それで、この「1%の努力」だけは、
絶対に自分がやるしかないの。

《すごいタイプ》の人は、人の力を結集することができる。
そういう人は、いくつになっても、
人から可愛がられるような可愛げのある人。
人から愛される人望のある人。
言葉に愛がある人。

この反対の《立派タイプ》の人は、
エラそうだったり、威張ってたり、理屈っぽかったり、
冷たかったりするような、人から好かれない人。
言葉に愛がない人。

我々がこの世に生まれてきた大きな目的の1つは、
人間関係を学ぶため。
人との接し方を通じて、自分を少しでも高めていくこと。
いつも人が喜ぶことを考えている人は、人に与えている人。
だから、人が助けてくれたり、動いてくれたりする。
《すごいタイプ》がイイですね。

エンジンオイル、OEM仲間の経営塾より

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『幸せはあなたの心が決める』

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渡辺和子

女子学生たちと五十年以上接していて気がつくことは、
この年頃の人たちの多くが、愛に必要なのは、
すばらしい対象に出会うことだと考えていることです。

それも決して間違いではないのですが、
その対象が「すばらしさ」を失った時にも、
果たして愛し続けることができるかどうか、
ここに「愛の本質」が問われています。

健康だった相手が病気になってしまった時も、
前途を嘱望されていた相手が挫折にあった時にも、
その人を愛し続けることができるかどうかは、
私たちが自分の中に、「愛する力」を
養い育てているかどうかに、かかっているのです。

エーリッヒ・フロムが
『愛するということ』という本の中で、
「愛するということは、単なる熱情ではない。
それは一つの決意であり、判断であり、約束である」と
きびしい言葉を述べているのも、
この愛の本質を指摘したものと言えるでしょう。

ふだんからピアノの練習もせずに、
立派なピアノを見つけさえすれば、上手に弾けると思ったり、
絵を描く練習もせずに、
ひたすら美しい景色を探している人にも似て、
ふだんから「愛する」練習をしないで、
すてきな人との出会いを待っていては、いけないのです。

愛する力を育てるためには、まず私たちが毎日の生活の中で
「当たり前」と考えていることや、人、物を「有り難い」と、
感謝の気持ちで受けとめることが大切です。

マイナスの価値しかないと思えることや、
不幸、災難、苦しみにさえも意味を見出して、
これまた「有り難い」と感謝できる時、
私たちは愛すべきものを随所に持ち、
愛し難い人さえも、その人の存在そのものの価値を認める、
愛深く幸せな人間になれるのです。

〇昔の人は、「一緒に苦労してくれないか?」と
プロポーズして結婚した。
今の人は、「一緒に幸せになろう」と言って結婚する。

一緒に苦労するのが前提なら、
二人で苦労することは何ともない。
しかし、幸せになろうと言って、
苦労することになってしまったら
「話が違う」ということになる。

昨今、離婚が増えているのは、
こんな理由もあるからでしょうね。

日常の中で、当たり前の幸せに気づける人は、
普段から苦労することを厭わない人。
苦労が前提だから、ちょっとした幸せにも気づくことができる。

物事はうまくいかなくて当たり前、と肚をくくると、
ほんの少し成功しただけで感謝できる。
満足するレベルを低くとることはとても大事だ。

マイナスの価値しかないと思えることさえにも、
意味を見出して感謝できる人は既に幸せの境地にいる。

エンジンオイル、OEM仲間の経営塾より

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分断が招くスタグフレーション(景気後退とインフレの同時進行)

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世界経済をスタグフレーションの影がおおう。
引き金は新型コロナウイルス禍とウクライナ戦争だが、
主因は米中覇権争いによる分断だ。

スタグフレーションは構造的危機だ。
米中対立はグローバル経済に冷水を浴びせ、
世界経済を鈍化させた。
安全保障優先の規制が市場経済をゆがめ
自由貿易を後退させた。
供給網の分断による供給規制で
家計は物価上昇に苦しみ、
企業はコスト増に悩む。
米国のIT大手の人員削減はコスト増に対する対策だが
景気を下押しする。

米中分断は半導体分断に象徴される。
バイデン米大統領の対中半導体規制や
台湾TSMCの囲い込みで
半導体分断が世界を巻き込んだ。

エンジンオイル、OEM仲間の経営塾より

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『人生の教養が身につく』

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ライフネット生命保険会長、出口治明

《よく笑い、よく眠る。悩みの7割はそれで解決》
…笑いこそ、人間の持つ「唯一、かつ強力な武器」。

たとえば、今の日本において、とくに仕事や公式の場では、
ひたすら「真面目」が尊ばれ、
「笑い」や「おふざけ」や「いたずら心」などの
遊び心はタブー視される傾向があります。

しかし、あらゆるイノベーションの生まれる素地は、
じつはこうした遊び心からなのです。

逆に、青筋を立ててひたすら「真面目にせなあかん!」
となったら、ロクなことになりません。
視野が狭くなり、四角四面な発想しかできなくなります。

いい例が、東日本大震災のときのわが国の首相の対応です。
あのとき、首相は官邸のソファに寝泊まりをして、
飲まず食わずで指揮をとっていた。
非常事態においては、大将は、しっかり眠り、
たっぷり食べて、
心身ともに健康な状態でいなければならない。
でないと、適切な判断ができません。

ところが、彼はその真逆をやっていたのです。
「みんなががんばっているのだから、
俺もがんばらなあかん」と思ったのかもしれませんが、
発想が逆です。
睡眠不足で、食事もロクにとらなければ、
イライラしますし怒鳴りたくもなるし、
判断もブレやすくなります。
それで国を左右する判断をしようとしていたのですから、
恐ろしいものです。

仕事でもプライベートでも、深刻にならないほうがいい。

落ち込むことがあったら、仲のいい友達や、
あるいはパートナーとおいしいものでも食べて、
ゲラゲラ笑って、あとはぐっすり眠れば、

悩みの7割くらいは解消できます。

講演会などで、「人生落ち込んだときの過ごし方を
アドバイスしてください」という質問には
いつもこう答えているのですが、
質問者の肩からは「僕は真面目に質問しているんですよ」と
言われたりします。

でも、これは私の真面目な答えなのです。

疲れていたら本すら読めません。
本を読むにも体力が必要なのです。
それより、たくさん食べて、大いに笑って、
ぐっすり眠ったほうがいい。
そして、スッキリしたら、
翌日からまたゼロクリアして一所懸命働くほうがいい。

真面目に考えすぎるのは不幸の元なのです。

真剣さと深刻さは違う。
真剣さは必要だが、深刻さはいらない。

深刻になった途端、柔軟さがなくなり、
物事の判断が鈍(にぶ)るからだ。

同様に真面目なのはいいが、真面目過ぎるのはダメ。
ルールを守るとか、誠実であるとか、嘘をつかないという
真面目な資質はとても大事だ。
しかし、それが行き過ぎると、ゆるしや、寛容さ、といった
「しなやかさ」がなくなってくる。

笑いは、ゆるしであり、共感であり、肯定だ。
状況が厳しければ厳しいほど、ユーモアや笑いが必要だ。

エンジンオイル、OEM仲間の経営塾より

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THE ONE THING

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ゲアリー・ケラー

クリスマスをはじめ、
人々に幸せをもたらすあらゆるものを嫌悪している、
無慈悲で、しみったれで、どん欲で、
守銭奴の代名詞のようにいわれる男スクルージ。
チャールズ・ディケンズの名作『クリスマス・キャロル』の
主人公、エベニーザ・スクルージだ。

あるクリスマスイヴのこと、スクルージのもとに
かつての共同経営者ジェイコヴ・マーレイの亡霊が現れる。
マーレイは嘆き悲しんで言う。

「私が今夜ここに来たのは君に警告するためだ。
君にはまだ私のような運命を免れるチャンスも希望もある。
いずれ3人の精霊が君のもとに現れるだろう」

やがて精霊たちがやってきて、
スクルージの過去、現在、未来を見せる。
それはぞっとするような経験で、
翌朝目覚めても、彼の動揺はおさまらなかった。
めまいを感じながらも、
彼はまだ運命を変えるだけの時間があることに気づく。

通りに飛び出すと最初に出会った少年に、
市場で一番大きな七面鳥を買って、
彼のたった一人の使用人ボブ・クラチットの家に
名前を伏せて届けるように頼む。

また、以前貧しい人のための施しを懇願されて
はねつけた紳士に会うと、
すぐに許しを乞い、多額の寄付を約束する。

最後に甥の家に行き、
長いあいだ自分が愚か者だったことを詫び、
祝祭の晩餐の招待を受け入れる。
甥と妻と客たちは、彼が心から喜んでいる様子にひどく驚く。

翌朝、クラチットが遅刻して出勤してくると、
スクルージが待ちかまえていて、いつものように怒鳴る。
「こんな時間に来るなんて、どういうつもりだ?
もう我慢ならない!」
しかしスクルージの次の一言を聞いて、
クラチットは耳を疑う。
「だから、君の給料を上げようと思う!」
その後もずっと、スクルージはクラチット一家の力になる。

クラチットの末息子で病弱なティムのために医者を見つけ、
ティムの第二の父ともいえる存在になる。
彼は残りの人生を他人につくすことに
時間とお金を費やしながら生きていく。

マーレイの亡霊が現れたあとスクルージはどうなったか?
彼の目的は変わり、それが最優先事項を変え、
その結果、生産力を向ける対象が変わった。

マーレイのおかげで、スクルージは
新たな目的の力、変化を引き起こす力を
身をもって知ったのだ。

物語が終わるころには、スクルージの目的は
もはやお金ではなく、人間になっている。
人との交わりに幸せを感じ、
なんとか救いの手を伸ばそうとする。

お金をため込むことより人を助けることに価値を見出し、
お金は人のために役立ててこそ、のものだと考える。

どんな人間か、どこへ行こうとしているのかによって、
その人が何をし、何をなしとげるかが決まる。
目的を持って生きる人生は、
どんな人生よりも力強く幸せである。

人の生き方にとって、もっとも大事なことは、その方向性だ。
どちらを目指して進んで行くかによって、
人は全く違った道を歩んでしまう。
己の欲のために生きるのか、人の喜びのために生きるのか。

意欲が強ければ強いほど、間違った方向性を目指すなら、
その崩壊のスピードは早まる。

我々はいったい、どこを目指しているのか、
どんな人生を歩もうとしているのか。
人の喜びのために生きている人は幸せだ。

エンジンオイル、OEM仲間の経営塾より

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『幸せを感じるには』

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小林正観

生れてからずっと目が見えていない人は、
「1秒でもいい、いや0.1秒でもいいから、
親の顔を見てみたい」
「結婚した相手の顔を見てみたい」
「子どもの顔を見てみたい」と
思いながら生きているそうです。

私たちは、0.1秒どころか、生まれてこのかた
目が見えないことなどないにもかかわらず、
目が見えるということに対して、
感謝することなどまずありません。

それどころか、「あれが欲しい」「これが欲しい」
「あれをよこせ」「これをよこせ」と
現状に対して不満ばかり口にしています。

私たちは小さい頃から、足りないものをリストアップして、
それを手にいれなければ幸せになれないと
教え込まれています。
そのように洗脳されているのです。
それを、「夢と希望に満ちあふれた生活」といいます。

それに対して、私は「夢と希望もない生活」を送っています。
夢も希望もない代わりに、
悩みも苦しみも煩悩もありません。

私は酒もタバコも麻雀も、娯楽といわれるものは
何もしませんし、休みもほとんどありません。

「何が楽しくて生きているのですか?」と
ときどき尋ねられることがありますが、
「ただ幸せをかみしめて」生きている。

「自分がいかに恵まれているか」「自分がいかに幸せか」
「自分がいかにありがたい状況に生きているか」
ということに気づいたら、
「不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句」の「五戒」など
口から出てきません。

願いがかなったら、望んだものが手に入ったら感謝する、
というのは、本当の感謝ではありません。
何も要求することなく、不平不満を言うこともなく、
いま目の前にあるものをありがたく味わう。
それこそが、本当の「感謝」なのです。

人は、自分がいかに幸せな状況のなかで
生きているかに気がつきません。
それは、海で泳いでる魚は、海を見ることができません。
それで「自分も海をみてみたい」と思い、
釣り人が垂れている釣り糸にガブリ!とかぶりつくのです。

すると海の上に引っ張り上げられる。
それで初めて、魚は海というものを見ることができるのです。

釣り上げられた魚が「私」なら、釣り上げた人とは「神さま」。
釣り上げられた状態は何かといえば、「事故、災難」。
海とは、「幸せ」そのものです。

神さまに「幸せというものを見せてください」と言うと、
神さまは「わかりました」と言って、
災難や事故というものを起こして、
私たちを釣り上げてくれます。

かぜをひいて、丸1日何も食べられなかったら、
かぜが治ったときに食べた1杯のおかゆが
とてつもなくおいしく感じられるでしょう。
元気いっぱいで毎日おいしいごちそうばかり食べていたら、
おかゆのおいしさはなかなかわからないでしょう。

では、かぜで丸1日食べられなかったことは、
はたして不幸なことだったのでしょうか?
そうとはいえないでしょう。
その体験があったからおかゆのおいしさ(幸せ)を
味わうことができたのです。

私たちが「幸せ」を感じるためには、
その前には一般的に「つらい、苦しい、大変」と
いわれる状況が起こるようです。
そういう構造になっている。

そのことに気づいたら、私たちはつらいこと、苦しいこと、
大変なことに遭遇したときも、
一喜一憂せずに、平静な心でいられるかもしれません。

人は、「失って初めて、その大切さに気づく」
という習性がある。
それは、両親だったり、恋人だったり、健康だったり、する。
当たり前の日常が、いかに大切な日々だったのか、
いかに有り難かったのか。
やっかいなことに、それを失ってみないと気づかない。

「ありがとう(有り難う)」の反対は、
「当たり前」だと言われる。
目が見えることも、耳が聞こえることも、
話しができることも、本当は、当たり前ではない。
有ることが最も難しいことなのだ。
奇跡のようなこと。
そのことに気づいたとき、当たり前のように過ぎていく
日常には感謝しかなくなる。

それは、自分の体に対しても同じ。
寝ている間も動いてくれている心臓や肺、
ありとあらゆる臓器は文句もいわず
365日休みなく動いてくれている。

自分がいかにありがたい状況に生きているか、に
気づける人でありたい。

エンジンオイル、OEM仲間の経営塾より

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