芸に遊ぶ

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安岡定子

《道に志し、徳に拠(よ)り、仁(じん)に依(よ)り、芸に遊(あそ)ぶ。》(述而七・じゅつじ)
(人は正しい道を求め続け、それによって得た徳という高い品格を拠り所とし、また仁という人間愛を頼りとし、その上で豊かな教養の世界を気ままに楽しむ。これこそがまさしく君子の姿なのだ。)

これは、実に端的に孔子の考えを表しています。
まず志を持つ。それを実践する時には高い品格がなければいけない。しかもそこには情愛もなくてはいけない。かなりレベルの高い生き様が要求されます。窮屈な感じがするかもしれませんが、よくよく考えてみれば、当たり前の原理・原則を述べているにすぎません。

この言葉の最後には「芸に遊ぶ」とあります。芸と聞くと、お稽古事などを思い浮かべる方もあるでしょう。
しかしこの芸は六芸という当時の六つの必修教科のことを指します。書・数・礼・楽・御・射の六つです。書は古典、数は数学、礼は礼節、楽は音楽、御は馬術、射は弓道です。
これらを学ぶ時にも心に余裕を持って、それぞれの世界を逍遥(しょうよう)できるくらいのおおらかさがないといけないと言っています。

「芸に遊ぶ」の一言が加わっただけで、ずいぶん趣きが変わります。六芸を仕事に置き換えてみれば、誠実にひたむきに取り組むことももちろん重要ですが、そこに心の余裕が加われば、仕事の仕上がりも違ってくるでしょう。客観的に全体像を観られる、予定外のことが起こっても上手く切り抜けられる、まさに臨機応変に事に臨めます。

〇茨城県水戸市にある旧水戸藩の藩校・弘道館には「游於芸(げいにあそぶ)」という扁額がかかって います。これは水戸藩九代目藩主・徳川斉昭公によるものですが、この「論語」からとられています。文武に凝り固まることなく、悠々と身を修めるという意味です。

〇「之(これ)を知る者は、之を好む者に如(し)かず。之を好む者は、之を楽しむ者に如かず。」(『論語』雍也篇)物事を単に知識として知っているだけの者は、これを好きな者には勝てない。好きでやっている者は、それを心から楽しんでいる者にはかなわない。「芸に遊ぶ」とはまさに、それと同じで、芸を楽しんでいること。

〇小林正観
「人生は楽しむためにある」人生は、「喜ばれるための場」であり、「感謝をする場」であり、「楽しむための場」であって、修行の場ではない。
それを楽しむ人は、時間のたつのも忘れて、それに没頭できる。そこには、苦労や努力や頑張る、という修行のような概念はなく、ただひたすら「楽しくて仕方ない」という気持ちだけ。

昨今は学校だけでなく、あらゆる場所に、学びのコミュニティがある。社会人になってからや、リタイアしてからの学びほど楽しいものはない。強制ではなく、自発的に好きなことを学ぶからです。それが、悠々として身を修めることになっていきます。

エンジンオイル、メーカー、OEM仲間の経営塾より

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「笑い」の力が人生をひらく

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櫻木健古

ユーモア精神を身につけよ、とは、必ずしも、ジョークをポンポン飛ばしたり、ユーモア・パフォーマンスをしたり、といったことだけではない。
第一義的に大切なのは、「ユーモアに対する感性」を身につけよ、ということである。「笑いがわかる人間になれ」ということである。

落語についていえば、これを鑑賞できる人間になりましょう、ということ。それさえできるなら、落語的なユーモアへの感性は身についている。みずから落語を演じることは、必ずしも必要ではない。ただし、やりたい人、その才のある人は、大いになさるとよい
駄ジャレ一つ飛ばすことができなくても、それはそれでけっこうである。ただし、ユーモリストたちの言行を、「おもしろいな」と思える人にはなりなさい。それが、ユーモアへの感性があるということ。

「くだらんこと言ってやがる」としか思えないなら、あなたは笑いがわからず、“あそび”ができない、味もそっけもないクソマジメ人間ということになる。「笑わせ屋」になる必要は必ずしもないが、「笑い屋」にはなりなさい、ということ。双方ともになれるなら、もちろん、それに越したことはない。

人が笑わせようとしたのに笑ってやらないのは、ヘソ曲がりに非ずば、笑いの感性に欠けているのであり、どちらにしても欠陥人間なのであって、そのような人の人間関係はうまくゆかない。

ユーモアのセンスを磨き、人前でジョークを言って笑わせたりすることは、かなり難度が高い。
しかし、自分を笑い飛ばすとか、自分の欠点をさらけ出したり、失敗をネタにする、というようなことは、比較的難度が低い。ただし、プライドを捨て、恥をかく覚悟を決めなければならない。

「およそ恥ということを打ち捨てて、世の事は成るべし」坂本竜馬
一緒にいて楽しい人は、よく笑う人だ。ちょっとした話に、大げさに驚いたリ、笑い転げたりしたら、また会いたくなってしまう。笑いの感性が高い人だ。

エンジンオイル、メーカー、OEM仲間の経営塾より

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「失敗とは成功の前兆」

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コリン・ターナー

業種に関係なく、あなたは常に無限のチャンスがある。型にハマった考え方を捨て、新しいものとかかわろうとする人々は、物質的に満たされるだけではなく、自分の仕事のなかに多大な喜びと満足を見出す。

もしあなたがチャンスを待って、言い訳に言い訳を重ねているのなら、いずれは「もう年をとりすぎた」という最後の言い訳にたどり着く。
この世を去るその日まであなたは、世界は自分に背を向けていて、自分の才能はふさわしい評価を得ず、成功した人たちは「運」や「まわりの力」に恵まれていただけなのだと考えつづける。

億万長者とあなたとの間にあるただ一つの差異は、「自身の姿勢」なのだ。
あなたは自分自身にとって、最も質が悪く手ごわい敵になり得る。「この世のどんな力も、あなた自身ほど、あなたの成長を妨げることはない」
自分の無限の可能性を理解し、チャンスをつかむことは自分の当然の権利なのだと気づいたなら、ただ前に進めばいい。

〇1809年、ケンタッキーにある赤ん坊が生まれた。父親は貧しいうえに、浮浪者であった。母親は子どもが9歳のときに他界した。すべてのチャンスは待っているだけではなく、自分で探さなければいけないと言い残して。父親が反対し、彼は本を読むことも許されなかった。
彼の名はアブラハム・リンカーンといった。「探せ、さらば見つけられるだろう」という言葉は、人は何であれ、まず探さなければそれを手に入れることはできない、という意味である。待て、されば訪れるだろうとは意味が違う。

〇『ある父親が息子の通信簿を見て、そのあまりの劣等生ぶりに愕然とした。父親は息子に法廷弁護士になってもらいたいと考えていたが、校長はその可能性はまったくないと断言した。少年は落伍者だった。
この人物こそウィンストン・チャーチルである。彼は法廷弁護士にはならなかった。ただ英国史上最も偉大な指導者の一人となった。
挫折は彼に大志を抱かせた。奇妙に聞こえるかもしれないが、失敗とは人間を立ち止まらせ、その人生を考えさせ、チャンスを探させる、成功の前兆なのだ。失敗の数が多いほど、未来の成功への可能性は高くなるのだ』

〇松下幸之助翁は、「子どもの頃は貧乏で一家離散、 病気がちで体が弱く、学歴もない(小学校中退)人だった。でも、だから成功できた」と言われる。
貧乏、病気がち、無学歴、という3つの困難があった。それを乗り越えたがゆえに、大きな仕事を成し遂げた。これは、リンカーンも、チャーチルも同じ。
だからこそ、人はみな、無限のチャンスを持っている。「失敗とは成功の前兆である」

エンジンオイル、メーカー、OEM仲間の経営塾より

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