『幸せなんて、自己申告。』

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綾小路きみまろ

その昔、オーストリアに、エリザベートというそれは美しい女性がいたそうです。貴族の娘として生まれたエリザベートは、やがて皇帝に見初められ、16歳でオーストリア皇后となります。
ところが生来の自由人気質から、堅苦しい宮廷生活を嫌い、ヨーロッパ各地を旅行してばかりだった。皇后としての職務だけでなく、妻や母としての役目も果たそうとしなかったエリザベートは、やがて宮廷内で孤立していき、その寂しさから、さらに破滅的な行動に拍車がかかっていった。
そんなエリザベートの唯一の武器は、圧倒的な美貌でした。彼女は美しい顔立ちをしていただけでなく、身長172センチの長身、体重は45キロ程度。ウエストにいたってはなんと50センチと、驚異的な体型の持ち主だったそうです。
エリザベートの美に対する執着は、常軌を逸していました。美貌と若さを維持するために、肉は一切食べず、食事は専らブイヨンやオレンジジュース、ミルク、卵の白身だけで済ませていたようです。また、体型維持のため、何人もの侍女を従えて1日中宮廷内を早足で歩いたり、毎晩お酢に浸した布をウエストに巻きつけて過ごしたりした。
しかし、それほどの努力をもってしても、老いに抗うことはできませんでした。晩年、エリザベートは、分厚い黒のベールを頭からかぶり、さらに扇や日傘で隠して、決して顔を見せようとはしかなった。シワやシミだらけになってしまった自分の醜い顔を、人前にさらしたくなかったからです。その後、1898年に、エリザベートは旅行先の湖のほとりで暴漢に胸を刺され、その生涯を閉じます。
死後、彼女の波乱に満ちた人生は舞台化され、現在も世界中で人気を博しています。

女性に美に対する憧れと執念は、今も昔も変わりません。エリザベートの歩んだ人生を見てみると、美しさを手に入れることが、必ずしも人生の幸福につながるというわけではない。
彼女は、圧倒的な美しさによって大きな成功を手に入れました。しかし美しかったゆえに、それを失うことを、人一倍恐れた。老いて醜くなるほど、彼女の苦しみや孤独は、人の何倍も大きく膨らんでいったのです。
人は、必ず老いていきます。その運命からは逃れられません。美しい人はたるんでいく顔に、たくましい人はやせ細っていく体に、聡明な人はぼんやりと鈍っていく頭に、人一倍悩んで老いていきます。

人よりも輝いている部分をもっている人ほど、人生の後半は、それに悩まされて死んでいくのです。人生は、良いことも悪いことも全部半分ずつ、均(なら)せば同じ。最後は、ちゃんと辻褄が合うようにできている。
どんな人にも、その人にしか務まらない役割がある。美しくなくとも、体力がなくとも、全員、どこか一つはいいところが必ずある。人には、それぞれ生まれ持った器があるのです。

美しさや若さは眩しくキラキラ輝いて見えますが、日が陰り光を失ったときにこそ、その人の正体は生々しく浮かび上がります。自分にないもの、失ったものと同じだけ、自分が今、手にしているものに目を向けられるか。そこに人生を最後まで楽しむヒントが隠されている。《優れた部分がある人ほど、最後はその衰えに失望しながら死んでいく。自分にないものではなく、手にしているものに、目を向けて生きよう。》

〇絶世の美女と言われた、小野小町の詠んだ歌。
「花の色は うつりにけりな  いたづらに  わが身世にふる  ながめせしまに」桜の花の色は、 長雨が降り続く間に 、衰え色あせてしまった。私も、恋や世俗の事に思い悩んでいるあいだに、むなしく月日を過ごしてしまった。ちょうど私の美貌が衰えたように。
そして、こんなすさまじい辞世の句を残した。「われ死ねば 焼くな埋むるな 野にさらせ 痩せたる犬の腹肥やせ」もし、私が死んでも、焼いたリ埋めたりしなくてもよい。野に放り出して、痩せた犬にでも食わせてやってくれ。
どんなに絶世の美女であろうが、時がたてば老い、そして死んでいく。そして死ねば、自分の体は、あの世に持っていくことはできない。これは、財産も、名誉も、肩書も、みな同じこと。
だからこそ、無いものを嘆くのではなく、今自分が持っているものに目を向け、そしてそれがあることに感謝することが必要。今、仕事があり、家があり、家族や友や仲間があり、そして、 生きていること、五体あることに感謝する。
幸せな人は、ないものを嘆くのではなく、今あるものに感謝する。自分が今、手にしているものに目を向けたい。

エンジンオイル、メーカー、OEM仲間の経営塾より

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『美しい人に』

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渡辺和子

美しさは女の生命だともいえる。修道院に入った身に着飾ることも、化粧することも縁遠くなったが、美しい言葉を使うことはできる。
それは、あそばせ、ございますを頻発することではなくて、できるだけ美しいひびきを持った言葉を使うと同時に、適切な言葉を正確に使うことも意味している。借りものでない自分の言葉、そして、相手を傷つけないやさしい配慮を含んだ言葉でもある。

ヴァイオリンの早期才能教育で知られている鈴木鎮一氏が、「まず自分の言葉が相手を傷つけるかどうかを感じる能力を育てること、それが育てば、バッハやモーツアルトの美しい音楽を感じとることができる」という意味のことを言われた。他の子どもに負けないようにと、高い月謝を払い、高価な楽器を買って我が子を音楽塾に通わせている親たちの味わうべき言葉であろう。

今日のようにお金さえ出せば誰も彼も同じような服を着ることができ、立派な家に住み、車をのりまわし、外国旅行に行ける大衆社会の時代において、教養をあらわすものの一つは言葉となろう。
流行語でしか話せない人でなく、豊かな語彙をもち、やたらに外国語を使うことなく美しい日本語を話し、自分の立場を正確に判断して正しく敬語を使うことのできる人になりたい。
自分の感情をすなおにあらわし、意見を他人にも理解できるように伝えるとなると、これはもう言葉の意識ではなく、話す人の品性にかかわってくる。感情を適度にコントロールできる自制力、客観的にものごとを見る判断力、そして個性のある生活が必要となってくる。

人は話す前は自分の言葉の主人だが、口から出してしまった言葉の奴隷でしかない。そのためにもよく考えて話すことが大切だ。

〇矛盾のようだが、よく話すために、そして美しい言葉を使うためには沈黙が必要となってくる。
それは押しだまった沈黙、「自分」でいっぱいの沈黙でなく、または「物言えば唇寒し」といった自己防衛の沈黙でなく、実り豊かなもの、その間の充実のあふれが人をして話さざるを得なくさせるような準備の時間であり、自分のこれから話そうとすることの響きをあらかじめ聞くべく心の耳を澄ます時間である。
女の人の沈黙は特に美しいと思う。ほほえみとともに美しい沈黙を育てること。言葉に先立つものとしての沈黙を大切にしてゆきたい。

〇「ことばは刃物」という言葉がある。
刃物は、気を付けて扱えば料理などではなくてはならない大事な存在だが、誤った使い方をすると人を傷つける凶器ともなる。言葉もまた同じだ。

〇「神のささやきが聞こえるように沈黙しよう」(エマーソン)
《話し三分に聞き七分》、と言われるように、コミュニケーションは話すことより、むしろ聞くことの方が大事。
耳を澄ませば、神々のささやきまで聞こえる。自分が話してばかりいるときは、相手のことを分かろうとしていないとき。沈黙には忍耐がいる。しゃべりたくてウズウズしている自分を自己コントロールしなくてはならないからだ。美しい言葉と沈黙には大人の品格がある。

エンジンオイル、メーカー、OEM仲間の経営塾より

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