『心配せんでもよい』

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丹波あじさい寺住職、小藪実英

十月の中頃、三人連れのご婦人が
参拝にこられたことがありました。

その中のお一人が、庭の片隅に咲くコスモスの花を見つけ、
「まあ可愛い、こんなところで一生懸命咲いているね!
今日は、こんな可愛いコスモスに出会えてよかったわ。
ねえ、皆さん!」

「本当、本当」とにこやかに、おしゃべりしながら
本堂の方に上がって行かれたことがありました。

それから間もなく、一分もたたないすぐ後に、
違う三人連れのご婦人が参拝にこられました。

そして大きな声で「ああ、ここは六月のあじさいの頃でないと
あかんなあ、季節を間違ったなあ、残念残念」と、
そこに咲く可愛いコスモスの花を見つめ、
ブツブツ文句をいいながら
本堂の方へ上がって行かれたことがありました。

私はたまたまその光景を見て、「同じ日の同じ時間に
同じ物を見て」、全く違うとらえ方をされるのだなあと、
気付いたのです。

もし、この二つのタイプの方が同じように
人生を歩まれたとしたら、
全く違った人生がそこにできてしまうのだろうなと思いました。

何をしても「いいなあ、いいなあ」と生きていく人、
何を見ても何をしても「ブツブツ文句ばかり言って」
生きていく人。

一人は百歳まで生きたら百歳丸ごと素晴らしい人生になるし、
もう一人は、百歳まで生きても
つまらない人生を百年生きただけのことになるのです。

せっかく、人間という得難いいのちをいただいて、
この世に生まれてきたのですから、
「人間として生まれてきてよかったなあ」と思える人生を
送らないともったいないと思います。

そのためには、少々自分にとって不都合なことがあっても、
できるだけプラスになるように、
そのことをとらえて生きていくことが肝心です。

その積み重ねが我々の人生だからです。

人生も、何もいいことがないと諦めてしまわず、
しっかりと世の中を、人生を見つめてください。

何でもないところに、何ともいえない「しあわせ」が
いっぱい潜んでいるかもしれませんよ。
いや、きっと潜んでいますよ。

『よかった
よかった
この世に生まれて

そして
あなたに会えて』

どんな目をもって生きるか、どんな心をもって生きるか、
それによって随分人生は違ってくるのです。

よき日々をお過ごしください。

エンジンオイル、OEM仲間の経営塾より

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『ぼくが生まれてきたわけ』

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産婦人科医・医学博士、池川明

人はなぜ、生まれてくるのでしょうか?
これを子供たちに聞くと、「人の役に立つため」、
とりわけ「家族を幸せにするため」という答えが多い。

臨死体験をされた方々の複数の証言によると、
死後、閻魔様の前で聞かれるのは、
次の2つのことだけです。
1. 陰徳を積んだか?(人知れず、他人の役に立ったか?)
2. 自分の人生を楽しんだか?

であるにも関わらず、私たちが「生きているのがつらい」と
感じるのは、なぜでしょうか?

私が、多くの子供たちから集めたお話から解釈するに、
たぶん、「自分がつらい思いをして、
それを乗りこえたときに、魂はそれを“楽しい”と喜ぶ。
そしてつらい思いをしたからこそ、
同じようにつらい思いをしている人の
役に立つことができる」からだろう、と思います。

つまり、ずっと幸せかつ平穏に過ごしているだけの人は、
他人の心に寄りそえないし、
魂も、実は「それで楽しい」とは思わないようです。

つらさのただ中にある人は、
実は、同じようなつらさを経験したことのある人の助言しか、
真剣には聞かない。
なので、そのためにもつらい経験をする必要がある、
苦労する必要がある、とも思います。

実は、子供たちに聞いた、空の上で暮らす魂の日常は、
すごく穏やかで、平和で、幸せなのだそうです。

着るものにも、食べるものにも困らない世界で、
食べようと思えば、いくらでも食べられて、
ダイエットの必要もない、すごく良い所なのだそうです。

ですので、この世に生まれてくる魂たちは、
“非日常”を求めて…
まさにアミューズメントパークに来るような感覚で、
この世に生まれてくるのです。

楽園から楽園に移動しても“非日常”は感じられないので…
それでこの世は、制限が多く、
つらいことも多い世界なのでしょう。

また、空の上と、この世とでは、
どうも時間の流れも違うようです。
空の上は時間がすごくゆっくり流れていて、
地上は速いのです。

私たちの100年と、赤ちゃんとして過ごした
数週間とか数日間は、
あちらの世界に戻るとそう変わらない、と
多くの子が証言しています。

空の上では、時間という概念がないのだけれど、
あえて言うと、時間がものすごくゆっくり流れている、と。
だから地上に生まれて来ると、魂の成長が、
空の上にいる時よりもはるかに早まるのだそうです。

いわば、この世は、魂レベルの促成栽培地なのです。
空の上では、小学校1年~6年までに千年かかるのに、
地上では6年で済むとか、
そういった感覚で考えていただけると良さそうです。

ですから、お得なのです。
だから、みんな、地上に来たがるわけです。

ですから、「早く魂を成長させたいな」という人が
優先的に生まれて来ているとも言えます
(実際は、そうした成長とは無関係に、この地上に、
ただただ多くの刺激や体験を求めに来ている魂も
少なくないようですが)。

『子供が望む愛、注いでほしい愛って、何なのでしょうか?

これがけっこう難しいんですけど、
長年調べてきてわかったのは、それはどうも
「笑顔」のことのようなのです。
お母さんの笑顔。

妊娠中にニコニコしていて、生まれたとき、
赤ちゃんの顔を見てはニコッとして、
その後、子供が大きくなって
「ねぇ、ねぇ、お母さん」って言ってきたら、
「なあに?」ってニコッと笑う…これが愛情なのです。
愛情イコール、笑顔だったんですね。

でも、たいていのお母さんは、
妊娠中からしかめっつらをしています。
病院で、これをやっちゃダメ、
あれをやっちゃダメって言われますからね。
食事や行動も制限されて…具合は悪いし、
旦那は理解に乏しいし。

そうして苦労して生んだ後は、
赤ちゃんは泣きますし…さんざんなんですね。

そういうお母さんを、お子さんから見ると、
お母さんは、いつも眉間にしわを寄せていて、
つらそうな顔をしているんです。

子供は、自分が生まれて、お母さんが笑顔になるのを
期待しているのに、笑顔にならない。
すると、自分は生まれちゃいけなかったかな、と思うんです。

それで、少し大きくなってくると、今度は怒られるわけです。
「あんたが、こんなことをするから!」
「あんたさえいなけりゃ、お母さんは苦労しないのに!」とか。
そうしたら、「もう空に帰ろうかな」と思う子も
出てくるのです』

人生はジェットコースターのようなものだという。
山を乗り越えると、次は坂を猛スピードで下(くだ)る。
すると、また次の山がある。

苦しいことも同じで、乗り越えたと思ったら、
また次のイヤなことがやってくる。
しかし、何度も何度もその山や坂を越えていくと、
だんだんとそのアップダウンの傾斜は緩やかになってくる。

我々は、そのジェットコースターに乗ることを、
自ら選んで生まれてきた。

目の前に起こるできごとを、すべてそのように考えると
不平や文句は言えなくなる。
陰徳を積み、笑顔で人生を楽しみたいですね。

エンジンオイル、OEM仲間の経営塾より

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オヤジ本田宗一郎の哲学

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オヤジ曰く
本田技術研究所は技術を研究する所じゃない。
人間の研究をする所だ。
つまり、お客様の心を研究し、
お客様が求める将来価値を見つけるのが
最重要の仕事だ。
ホンダの存在意義は、
新しい価値を生み出して、世の中の人々に
喜んでもらうことだ。

オヤジ曰く
理念・哲学の無い行動・技術は凶器だ。
行動の無い理念は無価値である。
ホンダの哲学とは、哲学者が語るような
難しいものではない。
社員の中に生き続けているものだ。

オヤジ曰く
(埼玉工場を立てる時に、)
水は皆さまのものだから、
元の水よりもきれいにしてお返ししなさい。

オヤジ曰く
ホンダの哲学は、具体的に言うと
3つの喜びと人間尊重だ。

3つの喜びは我が社のモットーだ。
作って喜び、売って喜び、買って喜ぶ。
買って喜ぶが一番大切だ。
商売の本質は、お客様に喜んでもらうこと。
それをホンダの社員全員で喜ぼう。
買って喜ぶは、技術者が独りよがりにならないための
戒めにもなる。
これを真剣に考えると、技術者がすべきことは
お客様に喜んでもらうための
新しい価値づくりだという結論に自然にたどり着く。
論文のための研究や、技術者の好奇心を満たすための
技術開発は優先されない。
世の為、人の為が根底にある。

人間尊重
自立、平等、信頼だ。
無駄な奴は一人もいない。
みんなに得手をやらせれば
苦労を厭わず向上心が出て頑張り、
本人は幸せなんだ。
B級、C級の人間は出ていけといった
某アメリカの経営者は支持できない。

自律した個人が平等な立場で
お互いを信頼することが、ホンダの人間尊重だ。
自律して自分の意見を持てるように
技術者はとことん鍛えられる。

ホンダでは、技術の前では平等だ。
役職が高いからといって、
ある特定の技術をゴリ押しすることは許されない。
技術の優劣を判断する基準は、
お客様に新しい価値を提供できるかどうかだ。

エンジンオイル、OEM仲間の経営塾より

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『本当のオシャレ』

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美輪明宏b

本当にすばらしい年長者として敬われたいのなら、
場所が変わるとともに自分の気持ちを切り換えて、
普通の人なみの扱いで当然だと思い、
また普通以上に扱われた場合は、
それをありがたいことだと感じなければいけない。

そういうふうに思っている方こそが、
本当にしゃれている人なのだと私は思います。

けれども、そうでない野暮天がおりまして、
着るものは一流製品を身につけていますが、
考えていることが野暮で、ちょっともおしゃれではない。

そして本人はそれでいいとしても、不思議なことに、
女房子供までが虎の威を借りる狐になって
いばっていることが多い。
芸術家の奥さんもそうですね。

自分の才能で作品を書いて、
世の中で評価されているわけでもないのに、
それを自分の力でやったような錯覚を起こしている
奥様がいます。
子供も同じですね。

私はあるお金持ちの家の子供にこんなことを言ったんです。

「あんたたち、今まで何をしてきたの?
何ができるの?
どれだけお金をかせいだの?
何もないじゃないの。
ただ親からお金をもらっているだけでしょう。

親をせびり倒してヨットを買ってもらったり、
車を買ってもらっているんでしょう。

親というのは別の人格を持った別の人間なのよ。
心の中も頭の中も、生きてきた人生も、
あなたとは何の関わり合いもない、別の人間なのよ。
それなのに、あなたは親と自分を同一視して、
錯覚を起こしているんじゃないの?」

その子たちは、自分の能力以上の生活をしています。
着ているものはピカピカで、外国製の高い時計をして、
別荘だヨットだと遊び回っているんです。

いくら高い一流品を着ていても、
それではただのマネキン人形と同じです。
私はそういう人たちをおしゃれだというふうには思いません。
本当の意味でのおしゃれということをさとれば、
もっと心豊かな楽しい人生を送れるはずなのです。

エンジンオイル、OEM仲間の経営塾より

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『葉隠』

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明治大学教授、齋藤孝

《武士たる者は、武道を心懸くべきこと、
珍しからずといへども、皆人油断と見えたり。》
(武士たる者が武士道を心がけねばならないということは、
格別とりたてて言うほどのことでもないが、
すべての人に油断があるように思う)

「武道の大本をなんと心得る」と聞いても、
即座に答えらえる武士が少ないことを、
山本常朝は「油断している」と語りました。

とりたてて言うほどのことではないが、
答えられないのは武道の心がけができていない。
つまり、油断千万だというわけです。

聞かれたときには言下に答えることが重要で、
「ええと、なんだっけ?」などと言う人は、
普段から考え抜いていないのです。

たとえばあなたが「仕事とはどういうものか」と
上司に聞かれたとします。
「もちろんいろいろあるだろうが、
もっとも君が重要だと思うことは何だ?」と言われたら、
何と答えますか。

自分のやっていることに対して確信があるなら、
パッと思い浮かぶでしょう。
普段から考えていれば、躊躇しないで答えられるでしょう。

答えは変わってもいいし、一つでなくてもいい。
「今はこれを心がけています」というのでもいいから、
とにかく答える。
それが「言下に答える力」です。

私は、大学で学生を教えるときには言下に答える力を要求し、
質問には三秒以内に答えるようにと言っています。

採用面接のときでも「これからの仕事の中で
大事なこと三つあるとすれば何か」と聞かれて、
三つパッパッパッと答えられる人は、
普段から仕事について自分自身の答えを持っている人ですね。

作詞家の阿久悠さんがテレビのインタビューで、
「歌詞を作る上で大切なことは何ですか」と聞かれたとき、
間髪をいれずに「時代です!」と強く答えられたのが、
印象に残っています。

何かを考えて準備をし、経験して、
これだと思うところに行きつくこと。
それは、自分がつかんだものでいいのです。

どんなことでも「自分なりに定義してみる」というのは
面白いことです。

「葉隠には何が書かれてあるか」ということだって、
いくつも定義できるでしょう。

ただし、言下に答えられなければ、
本当にわかっているとは言えません。
油断があるということなのです。

エンジンオイル、OEM仲間の経営塾より

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『売り言葉に買い言葉』

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斎藤一人

「売り言葉に買い言葉」と言いますが、いままで、
売られた言葉を買ってもロクなことがなかった。
それでも、つい買ってしまうのが「売り言葉」です。

いわれなきこと、不当なことを言われたとき、
その「いわれなきこと」「不当なこと」というのは、
反論したくなるようなことと決まっている。
だから、つい買ってしまうのです。

「売り言葉」でも何でもそうなんですけれど、
他人が嫌なもの、悪いものをあなたに与えようとしたとき、
たいがい、怒ったり、動揺したりしますよね。

そうなると人は、つい、やり返しちゃうんです。
でも、やり返すと“負け”なんです。

いわれなきこと、非難、中傷に
目くじらを立てて相手に言い返すのは、
相手と同じ土俵に自分がのっかった、ということ。
だから、こちらの“負け”。

相手があなたに悪いものを与えようとしても、
あなたがスルーしてしまえばいいのです。
そうすれば、「よし吹く風荒くとも、心の中に波たたず」。
お釈迦さまの境地です。

簡単に言うと、相手がいくら言っても自分がやらなきゃ勝ち、
と決まっているんです。
この世の中は、そういうルールなのです。

ですから、たとえば、自分の親にこんなことを
言われたとします。
「おまえは、ホントにわがままだな」

自分では、親の期待に応えようとして
真面目に、一生懸命、勉強したり、
生きているつもりでいるのに、
「わがままだ」と言われたとします。
そのときは、反論しないのです。

たとえば、「ホントにそうだね。
ウチの一族でいちばんわがままだね」とか、
ワンクッション置いて、
「父さんのおかげで東京の大学に通えてるんだよね。
ありがとう。感謝してます」とか、
相手が喜ぶ言葉を相手に贈ってみる。

ちなみに、東京・新小岩にある、
「一人さんファンの集まるお店」に通っている
“たくちゃん”という男の子が、この方法をやってみたんです。

修業相手であるお父さんに
「そうだね、わがままだね」と言ったんですって。
その後、お父さんは彼に
うるさいことを言わなくなったそうですよ。

「仕返し」や「復讐」は負の連鎖を生むだけ。
どうせするなら「負」の仕返しではなく、「お礼」の仕返しを。

「お礼」の仕返しとは…
厳しいこと言ってくれて、「ありがとう」。
注意してくれて、「ありがとう、感謝します」。

「やり返したら負け」を肝に銘じましょう。

エンジンオイル、OEM仲間の経営塾より

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イメージを立体的に伝える

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 和田裕美

感覚的に得られた情報は、右脳で処理される。
それを言語にするためには、その情報を左脳へ
バトンタッチせねばならない。
右脳から左脳へバトンタッチできれば。
描写は立体的にイメージできる。

イメージできない言葉をずっと聞かされていると
大抵の人は疲れてしまう。
具体的にイメージできるように話す工夫が必要だ。
左脳だけでなく右脳をも刺激する。
オノマトペ(擬態語)をうまく活用するといい。
文字だけで伝えようとしない。
自分が目にしている景色を伝える感覚で話す。
ジェスチャーを入れたり、喜怒哀楽を表情に出すと
映像がイメージしやすくなる。

右脳から左脳への繋がりをスムースにして、
イメージを言葉でうまく表現するように努力する。
ポイントを押さえられると、
自分が持っていた漠然とした思いが、
フレームのある新しい言葉になってくる。

例)自分の読んだ本を5つのポイントを意識しながら
仲の良い人にレビューして鍛える
1.この本を読んだ理由
2.この本に感動した理由
3.具体的に感動した箇所
4.発見したこと
5.自分にどのように影響したか

エンジンオイル、OEM仲間の経営塾より

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『西郷隆盛 十の「訓え」』

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西郷隆文

薩摩は昔から「武の国」として知られながらも、
他国のように深い堀や高い石垣、堅牢な城に頼らず、
城はあっても、あえて城楼も天守閣も造りませんでした。

これは、城の背後を城山という
天然の要塞が護っていたこともありますが、
人間こそが不落の城であり、人間こそが堅固な石垣であり、
人間こそが長大な堀である、という
独特の人材登用と育成を大切にする慣わしが、あるからです。

薩摩の郷中制度は、薩摩の歴史とともに受け継がれ、
やがてそれが正式な「郷中教育」として完成したのが、
江戸時代中期です。

郷とは、方限、町内と呼ばれる行政の最小単位で、
郷中は郷の仲間を意味します。
武家の青少年による自治組織で、
武家の男子が6歳になると郷に入ります。

6歳から10歳ほどを小稚児、11歳から15歳ほどを長稚児と言い、
そして14、15歳で元服して二才となり、
25歳くらいまで郷中で学びます。
郷中ではニ才が長稚児を、長稚児が小稚児を指導し、
それぞれのリーダーとして、ニ才頭と稚児頭が選ばれ、
二才頭は郷中の責任を負います。

そして、二才頭自身も、それぞれの郷の二才頭同士で学び、
分かち合い、どうしても解決しないことがあれば、
25才くらいを超え長老と呼ばれる大先輩のところに行き、
教えを請いました。

これこそが郷中教育の特徴で、
教師なき教育制度と呼ばれるゆえんです。

郷中教育において最も大切とされる、
人として守るべき3つの教えがあります。

「負けるな」 人に負けないというよりも、
どんな困難に遭っても決して自分に負けてあきらめないこと。

「嘘をつくな」 過ちを犯したときには決して言い訳せず、
素直に非を受け入れること。

「弱い者をいじめるな」 弱い者いじめが最も卑劣で、
器の小さい人間のすることだから、慎むこと。

こうした郷中教育の教えには、いつの時代にも通用する
普遍の真理が含まれています。

さて、郷中でも教えを誰よりもかたく守り、年長者を敬い、
後輩をかわいがり、文武を鍛えた西郷さん。
やがて実力と人望を備えた若者として成長し、
下級武士の子ながら、下加治町の郷中に「西郷あり」と
藩内に知られるところとなっていきました。

西郷さんは、ニ才頭として後輩たちを指導していくのですが、
大山巌や東郷平八郎らはみな、
西郷さんからかわいがられた後輩たちでした。

下加治町の郷中の子供たちが、
他の郷中に比べて立派であるとされ、
彼らが模範とするリーダーの西郷さんの評判が
高まっていったそうです。

また、西郷さんは16歳のとき、その才能を評価され、
「郡方書役助」として藩に出仕しました。

これも、郷中教育で日々才能を磨いた努力の成果でしたが、
このことは、あとに続く後輩にとっても
大いに励みになりました。

エンジンオイル、OEM仲間の経営塾より

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『神さまに好かれる話』

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小林正観

私たちは、一人ひとりを本当に大切にしているか、
ということを常に考える必要があります。

例えば、手紙をくれた人に返事を書こうと思いながら、
つい書きそびれて月日が経ってしまい、
いつの間にか忘れてしまうことは少なくありません。

同じように宅配便で何かを贈ってもらったとき、
すぐに礼状を出せばいいものを、
「そのうちに」と思っていると、先方から電話があり
「着きましたか」と聞かれることになります。

贈ってくれた人は、何も礼状が欲しいわけではなく、
届いたかどうか、確認したいだけです。

ですから、「届きました。ありがとう」という礼状を出す
(あるいは電話をする)ことが、
その人を大切にすることになるのですが、
私たちは、ついついなおざりにしているような気がします。

一人ひとりを本当に大切にしているかどうかで、
実はその人の「運命」が決まってきます。
「運命」というものは「人が運んでくるもの」です。

運んできてくださった人に「感謝」し、
「手を合わせる」、ということを続けていると、
その人の人生は、「嬉しさ」や「楽しさ」、「喜び」に
満ちたものになっていきます。

極端に言うと、「運命」には
「運がいい」とか「運が悪い」ということはありません。

「運が悪い人」というのは、目の前の「運」(人)を
見過ごしている(大切に思っていない)ということです。

一人ひとりを大切にしている人は、
必ず良い「運命」を手に入れます。
「運」は「人によって運ばれてくるもの」なのですから。

「運にめぐまれている人」というのは、
別に次から次へと「幸運がやってくる人」
という人ではありません。
一人ひとりを大切にしている人なのです。

人との「出会い」や「つき合い」を
大切にしていくかどうかで、自分の将来が決まっていく、
ということに気がつかなければいけません。

一人ひとりを大切にしない人に「幸運」はありません。
つまり、良いものが運ばれてくることはないのです。

逆に、一人ひとりを大切にしている人
(社会的な地位や身分というものには関係なく、
人間一人ひとりを本当に大切にしている人)は、
「幸運」を手に入れます。

それは、金銭的経済的にプラスになるということではなく、
目に見えない「運の良さ」というのもです。

「今まで自分は、運が悪かった」「ついてなかった」と
嘆く人は、きっと、
一人ひとりを大切にしてこなかったのですね。

もう一度、自分の日常生活を見直してみましょう。

報酬や仕事というものに関わっていなくても、
自分と縁のある人、出会う人というのが必ずいるはずです。
その一人ひとりを、できるだけ大切にしていくことです。

そうすれば、今までにない「幸運」な日々が展開していきます。

茶道
「一期一会」
一生にもう二度と会う機会はないのだ、と言う気持ちで、
その場その場の出会いを大切にする。

運とは人のこと。
それは、目の前に現われた人を
どれだけ大事にするかということ。

相手の、地位が高いとか、肩書があるとかは関係なく、
そのご縁に深く感謝し、手を合わせる。

運にめぐまれている人は…
一人ひとりを大切にするし、感謝できる人。

エンジンオイル、OEM仲間の経営塾より

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モルヒネを使わない日本

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日本の緩和ケアで問題視されるのは、
モルヒネの使用量が少ないこと。

日本でモルヒネが普及しない原因は、
皮肉なことにモルヒネの値段が安い事。
もっとも、汎用されている鎮痛剤オキシコドンは
10㎎錠の日本での値段は260円と高い。

日本の医療用麻薬の使用量の少なさが指摘されても、
製薬企業の腰は重い。
「医療用麻薬は管理費などのコストがかかり、
濫用が表面に出るとメディアに叩かれるのに、
単価が安く割に合わない。」

エンジンオイル、OEM仲間の経営塾より

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