『 人を味方につける男、敵にする男 』

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櫻井秀勳

現在、多くの出版社から「引き寄せの法則」式の本が出ています。幸せを引き寄せる方法を分析した、スピリチュアル的な考え方のものが多い。
スピリチュアルがいいかどうかは別として、幸せを引き寄せるには、自分だけでなく周りの人たちも同時に、幸せな気分にしていかないといけません。自分だけ幸せを引き寄せようとしていたのでは、結局、自分も幸せになれないのです。

この引き寄せの法則は、いわば「相手に花を持たせる」という考え方と、不思議なくらい一致しています。「相手に花を持たせる」とは、その人を立てて功を譲ることです。こうすることにより、相手をよろこばせ、感謝されるのですが、そのことによって、相手も自分自身も、幸せを引き寄せることができるのです。
反対に、「俺が、俺が」と出しゃばったら、相手は怒ってしまうし、周囲もそんなあなたに冷たい視線を向けるでしょう。

しかし、手柄を相手に譲ることは、そう簡単ではありません。戦国時代には、敵の武将に最初の一太刀を浴びせた男と、その敵を最後に仕留めた男が、互いに手柄を譲らず、決闘になって、殺し合うのがふつうでした。現在でも、出世がからむ場合など、容易に勝ちを譲ろうとはしないでしょう。
だからこそ、相手に花を持たせる度量の持ち主が、上の人から注目される存在になっていくのです。とはいえ、相手に花を持たせたことを、上の人がしっかり気がつき、認めてくれるかという不安があるのも事実です。

長い目で見ようとせず、毎月の売上だけで社員を判断するような会社に入ったら、それこそ悲劇です。だからこそ、目先の利だけに走った就職活動は、ときに大きなソンを生むこともあるのです。そうなったら即、辞めないと、ズルズルと不幸の淵にはまってしまうでしょう。

しかしふつうは、どんな会社にも信頼できる人の一人や二人は、必ずいるものです。また、誰も見ていなくても、相手に花を持たせればいいではありませんか。あなたの人間形成上、決して悪いことではありません。
相手に花を持たせるとは、その人を立てて功を譲ったり、 人に名誉や手柄を譲ったり、相手に恥をかかせなかったりすることだ。

何か議論になってしまったようなとき、あえて反論せず、「そうですね」と言って引き下がるようなこと。ムキになってやり合えば、ケンカになってしまい、関係も悪くなる。正しさを競って、相手をやり込めることができたとしても、何の得もない。サッとよけることだ
「自分の方がすごいんだ」とか「私のがもっと知っている」と競うのは、傍から見ていて見苦しい。人間が「小さい」とみられてしまう。そして、人としての器の大きさが問われる。
人と話をしていて、自分の方が多くしゃべってしまう、というのも同じ。人の話をじっと黙って聞いている、出しゃばらないし、静かに控えている、ということは人間関係にとって、時に、とても大事なこと。

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『禅的老い方』

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境野勝悟臨済宗の僧、翠厳(すいがん)禅師
「我心(がしん)を忘ずるは、即(すなわち)心仏となる」。

「我心」とは、自分だけの利益ばかりを考える心だ。自分だけが得しよう、自分だけが豊かになろうと…。すると、どうしても、日常生活すべてが、自己中心的となる。なにかを話すにしても、自分の考えでしか、人と話せない。相手の意見が、まったく、読めない。「私は、人のためばかり思っている」なんて言っているが、じつは、自分だけの考えで、自分のエゴで、人のためと思っているだけだ。
相手が、「いい」と思っていることを、応援して、手助けしてやる。そこではじめて「人のため」の行動が、とれる。

老いて注意する点は、ただひとつ。自己中心の考えや、自分の考えだけによる取捨選択の、いっさいの行動を捨て去ることだ。
けっして、難しいことじゃない。こっちの意見を言う前に、相手の考えをよく聞いてやる。「こうしろ」という前に、「こうしてほしい」と言われたら、誠心誠意尽くしてさしあげることだ。少なくとも、禅的に生きたいなら、ここが、肝心かなめの点だ。

「自分のためにやる」「自分が得するためにやる」若いうちは、それでいい。が、老いてきたら、得るものは、決まってくる。得ようと思ったって、かぎりがある。

禅的老い方の基本は、第一に「他利(たり)」である。もし、禅的に老いたいなら、「自分のため」は、後まわし。相手がよくなるように、相手が喜ぶように、相手の考えや趣向をよく理解したうえで、「この人のため」に行動を開始する。その修練を徹底的に実践する。
じつは、そのことが、いちばん、自分のためにもなる。なかなかできない。それは、分かりきっている。できなくても、できなくても、つづけていく。

例えば…。若い人の意見を、よく聞く、聞く、聞く…。
オーソリティの意見ではない。
学者の意見でもない。
名高い評論家の意見でもない。
若い人だ。

若い人の意見をひざまずいて、合掌して聞く、聞く、聞く…。
嫌なことだ。面白くないことだ。
若い人の意見を聞いているうち、「なにっ。オレを誰だと思っているんだ!なめるな!」という気持ちになるのは、よく、分かる。が、そこが、こらえどころだ。ガマンにガマンをして、「うむ。なるほど、よく分かった」…と。

若い人の意見どおりに、行動しなくてもいい。ただ、「分かった」と、まず、しっかりと、その意見を誠実に認めてあげることだ。若い人の意見を、「なるほど、いいことを言うね」と、素直に受け入れて、「参考にさせてもらうよ。ありがとう」と、もし、言えるような自分になったら、老後の人生は、パッと開ける。老後すべての生活に、春が、来る。花が、咲く。

世界に類をみない革命、明治維新を成し遂げたのは20代や30代の若者たちだ。しかし、忘れていけないのは、その裏に、彼らを認めたり、応援した、年長者や老人たちがいた。どんな改革でも、実力や権力のある年長者や老人たちが本気になって止めたら、その改革は一歩も進まない。昨今の大企業がバタバタとダメになっていく裏には、こういう現象がある。
だからこそ、年長者や老人は、「若者を応援する人」でなければならない。特に、変化の激しい現代はそれが必要。応援するには、自分も勉強して、その問題の本質をある程度わかっていなければならない。
つまり、新しい情報や、考え方を受け入れる好奇心と柔軟性が必要。若者とつき合うには、魅力がなければならない。頑固一徹で、誰の話も聞かず、昔話ばかりしているような老人には誰も会おうとはしない。

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