『禅的老い方』

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境野勝悟臨済宗の僧、翠厳(すいがん)禅師
「我心(がしん)を忘ずるは、即(すなわち)心仏となる」。

「我心」とは、自分だけの利益ばかりを考える心だ。自分だけが得しよう、自分だけが豊かになろうと…。すると、どうしても、日常生活すべてが、自己中心的となる。なにかを話すにしても、自分の考えでしか、人と話せない。相手の意見が、まったく、読めない。「私は、人のためばかり思っている」なんて言っているが、じつは、自分だけの考えで、自分のエゴで、人のためと思っているだけだ。
相手が、「いい」と思っていることを、応援して、手助けしてやる。そこではじめて「人のため」の行動が、とれる。

老いて注意する点は、ただひとつ。自己中心の考えや、自分の考えだけによる取捨選択の、いっさいの行動を捨て去ることだ。
けっして、難しいことじゃない。こっちの意見を言う前に、相手の考えをよく聞いてやる。「こうしろ」という前に、「こうしてほしい」と言われたら、誠心誠意尽くしてさしあげることだ。少なくとも、禅的に生きたいなら、ここが、肝心かなめの点だ。

「自分のためにやる」「自分が得するためにやる」若いうちは、それでいい。が、老いてきたら、得るものは、決まってくる。得ようと思ったって、かぎりがある。

禅的老い方の基本は、第一に「他利(たり)」である。もし、禅的に老いたいなら、「自分のため」は、後まわし。相手がよくなるように、相手が喜ぶように、相手の考えや趣向をよく理解したうえで、「この人のため」に行動を開始する。その修練を徹底的に実践する。
じつは、そのことが、いちばん、自分のためにもなる。なかなかできない。それは、分かりきっている。できなくても、できなくても、つづけていく。

例えば…。若い人の意見を、よく聞く、聞く、聞く…。
オーソリティの意見ではない。
学者の意見でもない。
名高い評論家の意見でもない。
若い人だ。

若い人の意見をひざまずいて、合掌して聞く、聞く、聞く…。
嫌なことだ。面白くないことだ。
若い人の意見を聞いているうち、「なにっ。オレを誰だと思っているんだ!なめるな!」という気持ちになるのは、よく、分かる。が、そこが、こらえどころだ。ガマンにガマンをして、「うむ。なるほど、よく分かった」…と。

若い人の意見どおりに、行動しなくてもいい。ただ、「分かった」と、まず、しっかりと、その意見を誠実に認めてあげることだ。若い人の意見を、「なるほど、いいことを言うね」と、素直に受け入れて、「参考にさせてもらうよ。ありがとう」と、もし、言えるような自分になったら、老後の人生は、パッと開ける。老後すべての生活に、春が、来る。花が、咲く。

世界に類をみない革命、明治維新を成し遂げたのは20代や30代の若者たちだ。しかし、忘れていけないのは、その裏に、彼らを認めたり、応援した、年長者や老人たちがいた。どんな改革でも、実力や権力のある年長者や老人たちが本気になって止めたら、その改革は一歩も進まない。昨今の大企業がバタバタとダメになっていく裏には、こういう現象がある。
だからこそ、年長者や老人は、「若者を応援する人」でなければならない。特に、変化の激しい現代はそれが必要。応援するには、自分も勉強して、その問題の本質をある程度わかっていなければならない。
つまり、新しい情報や、考え方を受け入れる好奇心と柔軟性が必要。若者とつき合うには、魅力がなければならない。頑固一徹で、誰の話も聞かず、昔話ばかりしているような老人には誰も会おうとはしない。

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