『エマソン 苦あれば楽あり』

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《人生は、避けがたい条件に包まれている》(エマソン)

避けがたい条件とは、「原因があるから、結果がある」「得るものがあれば、失うものがある」など、人生には分離できないものがあるということです。
賢明でない人間は、富や名声を得るということは、苦しい面は受け取らず甘い面だけを得ることだと考え、自分の欲しいものを欲しくないものから切り離せると考える。このような試みは、すべて失敗に終わることは明白だ…。

仕事でもプライベートでも、物事がうまくいかない時は、切り離せないものの片方だけを得ようとしている時ではないでしょうか?利益ばかり考えて先行投資をしなかったり、失敗を一切しないで成功させようとしたりしていませんか?本来分離できないものを分離し、片方の「甘い」部分だけを得ようとしてしまうのは、時々そうやって利益だけを獲得している人がいるからですね。

それを自慢する人もいるでしょう。「もし人生の条件を避けたように見えたとしても、それは人生に抵抗し、自分から逃げ出しているからにほかならず、それに応じた報いを受ける」人生には、避けがたい条件を受け入れる覚悟が必要なのです。

小林正観
『たとえば、私たちから見て右半分が一般的に言われる「不幸」で、左半分が一般的に言われる「幸福」だと思ってください。私たちが「幸せになりたい」とお願いすると、神さまは「わかりました」といって振り子を左に持っていくかと思いきや、右のほうに引っ張れるだけ引っ張るらいしいのです。たとえば、山の中で遭難して何も食べられなかったとしましょう。なんとか助けられて里にたどりつき、そこで一杯のおかゆをいただいた。それはこの上なくおいしく、楽しく、幸せで、素晴らしい食事となります。でも、毎日のように贅沢な食事を食べ続けている中で一杯のおかゆをもらっても、その価値はわからない。

つまり、私たちが「幸福」を感じるためには、その前に、一般的に「不幸」と言われるような現象が存在しなければなりません』
「苦あれば楽あり」という言葉がある。苦と楽は表裏一体で、片方だけを得ることはできないという意だが、まさに不幸と幸福も同じこと。
幸福を感じるためには、一般的にいう不幸という現象が必要だからだ。「苦あれば楽あり」と、人生を楽しみましょう。

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『「人間的」な生き方、遊びかた』

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「VAN」創業者、石津謙介

僕は平気で年齢のことを話すので、会う人のほとんどが、「えっ、本当ですか?」と驚いた顔を見せ、その次に必ず、「お若いですね」とくる。僕は、この言葉が嫌いである。
言うほうは、お世辞かお愛想か、あるいは本当に呆れ返っているのかは知らないが、言われたほうが、「てやんでぇ、若いわけがあるはずないだろう。こちとら80半ばを過ぎた正真正銘の爺さんだ」と啖呵の一つも切りたくなる。

自分が高齢者であることは、だれよりも自分自身がよく知っている。高齢者にとって、いちばん重要な問題は「健康」である。いくら長生きしようと、健康でなければ、豊かな人生の四毛作目の収穫を得ることはできない。僕がこの年齢になって、まがりなりにも仕事をし、人生の四毛作目を享受できるのも、体と精神が健康だからであり、健康だからこそ、まだまだ世のために尽くすことができる。僕は、今の健康を、もし、存在するのであれば神に感謝をささげたい。

また、人からよく、「長生きの秘訣はなんですか?」と聞かれるが、僕自身、長生きを美徳とは考えていない。
不遜な言い方で、誤解を受けることもあるが、僕の死に対するモットーは“丈夫で早死に”である。要は、人生やるべきことをし終えたら、なるべく早く若い人たちに後を譲りたいということだ。けれど、このモットーも、こう長生きしちゃ、意味をなさなくなりつつある。

長生きの秘訣という問題を真剣に考えてみた。そこで考えついたのが、人間のストレスを生み出す根元の「執着心」と「欲」を捨て去ることである。つまり、僕にとって、現在の年齢まで大病もせず、まがりなりにも生きてこられたのは、ストレスを適当に発散させる能力が自身に備わっていたからではないかと思う。要するに、人間、“いかにストレスを少なくするか”が、若い人にとっても、高齢者にとっても、快適な生活を送るための最重要課題なのである。

もう一つは、常に頭に栄養素を送ることである。頭の栄養素とは、さまざまな情報のこと。毎日、克明に新聞を読み、雑誌を読み、評判になっている本を読み、さらにテレビを見、いろいろな人に会って、あらゆる情報を頭に詰め込み、その後、情報を僕なりに選り分けて整理する。この作業が「思考の動脈硬化」を防いでくれる。好奇心を旺盛に保つのである。
「思考の動脈硬化」とは、今まで自分が体験してきたスタンダードを後生大事に守り、新しいものや情報を、そのスタンダードによってのみ判断することであり、僕は、それがいちばん恐ろしい。

さらに、腰の軽さも重要なファクターだ。僕は、面白いことがあったり、美味しいものがあると聞けば、すぐにすっ飛んでいく。その意味ではいたって腰の軽い男である。人は、高齢者の仲間に入ると、極端に事を起こすのが億劫になるというが、おかげさまで、僕の辞書に「億劫」という文字はない。自分のことは自分でやるというのもいい。僕は、たいがいのことは自分でやってのける。

年齢を重ねる毎に、他人との接触が億劫になるという人がいるが、僕は、逆に人と会うのが楽しくて仕方がない。ただし、同じような年代の人とは、よほど気の合った人でない限り、会いたくない。
というのは、ある年齢を超えた人々の集団の話題は、ほとんど病気の話と家族に関する愚痴ばかりで、気が滅入ることはなはだしい。老人たちは毎日、病院かゲートボール場で、そんな話をくり返しているらしく、それではストレスが逆にたまって仕方がないと思う。僕は、そのような場所に出入りすることは願い下げにしていただいている。

ところで、「忘年」という言葉をご存知だろうか?そう、あの忘年会の「忘年」である。一般には、その年の憂き辛さを忘れて、楽しく騒ぐという意味にとられているが、実は違う。
本来は、「忘年の友」の「忘年」で、つまり年齢の差など忘れ去って、親しく友として交わるという意味である。そして、高齢者には、この「忘年の友」、つまり異なったジェネレーションの話し相手が、ぜひとも必要なのである。若い人の考え方や、自分とは違う業種の人々の話を聞くと、「思考の動脈硬化」が薄れていき、常に頭脳に新鮮な刺激を与えることになる。特に、相手が異性であれば、他にもっと違った刺激が与えられるはずだ。

新しい友を探しに外へ出かける積極性もまた、長生きの秘訣の一つであある。大事なのは、老いも若きも、好奇心を失わないこと。同時に、腰が軽いこと。

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『リッツ・カールトン 一瞬で心が通う「言葉がけ」の習慣』

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前リッツ・カールトン日本支社長、高野登


それはリッツ・カールトン東京の開業準備で、忙しく都内を動き回っていたある日のことです。

六本木駅に地下鉄が止まると、すらりとした、髪の毛の長い女性が乗り込んできました。
仕事柄、多くの人たちを見てきていますから、姿勢や歩き方、お化粧などから、ひと目でモデルさんだなとわかりました。
混んでいる車内で、ちょうど私と並ぶかたちで優先席の前の吊り革につかまりました。

地下鉄が走りだしてしばらくすると、その彼女が腰をかがめて、前の席に座っている年配の女性の耳元でなにやら囁(ささや)いたのです。
おや、知り合いに気がついたのかな、などと想像して見ていたのですが、どうも様子が違うのです。

その年配の女性は、はっとした表情で、片手で膝の上の荷物を押さえながら、もう一方の手でブラウスの前に手をかけました。
そこでようやく私も気がつきました。
女性のブラウスのボタンがいくつか外れていて、上から見ると下着が見えてしまっていたのです。
それをそっと伝えたのでしょう。

懸命にボタンをかけようとするのですが、なかながとめることができません。
どうやら手が少し不自由だったのですね。
なんだかこちらまで焦ってきます。

とその時、その女性が再びかがみこんで、小さな声で「お手伝いさせてくださいね」と囁き、にっこりと微笑みながら、あっという間にブラウスのボタンを、鮮やかな手つきでとめてしまったのです。
あまりに意外なことに、あっけにとられていた女性。
でもその顔にはすぐに笑顔が浮かびました。
親切が本当に嬉しかったのでしょうね。

「参った!」。
思わず私は心の中で拍手をしていました。
さすがは早変わりや着替えに慣れているモデルさん。
それにしてもなんという自然体でしょうか。

次の駅で、会釈をして颯爽(さっそう)と降りていく彼女の背中に向かって、年配の女性は何度も何度も頭を下げていらっしゃいました。

混みあった東京の地下鉄の車内。
まるで無縁社会や孤独社会をそのまま表しているような、無機質ないつもの通勤時間帯。
でもその時、その一角だけは、確かにあたたかな空気に包まれていたような気がしたものです。


人は誰だって、社会の役に立ちたい、人のためになることをしたいと思っているものです。
「人の気持ちを考えて行動する」という感性、そのためのアンテナとレーダーの感度が、少し弱くなったかなと感じられたら、一度立ち止まって磨き直してみてはいかがでしょうか。
そのためのヒントは仕事の中にたくさんあります。
おおよそプロと呼ばれるような方は、アンテナとレーダーを磨き続けている方が多いように思います。

日々習慣づけて磨くことで、あなたも大きな飛躍を遂げることでしょう。


『明らかに困っている人がいたら、迷わずに声をかけることができますが、その判断がつかず迷ってしまうこともあります。

ホテルの現場でも似たようなことが起きます。
手を貸そうとして声をかけても「余計なお世話」と思われたら…、と考えると、声をかけるのをためらってしまうかもしれません。
「おせっかい」と「おもてなし」の間には、相手がそれを望んでいるかどうかという明確な境界線があるのです。

相手が望むか望まないかは相手の心が決めるもの。
でもその心は見えない。
それが読み取れないのであれば聞いてみるほかはないのです。
新人であってもベテランであっても同じです。

「よろしければお手伝いしましょうか?」
「大丈夫ですか?お手伝いは必要ありませんか?」
とひと声かけて相手の反応を見ます。

もし相手が、「どうもありがとう。お願いします」と言われたら、お手伝いしますし、「いえ、大丈夫です。結構ですから」と言われたら、「必要があればいつでもお声がけくださいね」と、一歩下がればよいだけのことです』

相手の心は見えないのだから、「要望」や「望み」は聞いて確かめるしかないのにも関わらず、聞かない人は多い。
「たぶんこう思っているはず」と、自分の勝手な思い込みで対応すると、相手とミゾができる。
それが何度も度重なると、深い断絶となってしまい、人間関係は修復不可能となる。人間関係のヘタな人だ。

「よろしければお手伝いしましょうか?」

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