『美しい人に』

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渡辺和子

■真山美保さんの作品に「泥かぶら」という一人の顔のみにくい子どもの話がある。みにくいが故に村の人々から嘲られ、子どもたちから石を投げられたり唾をかけられたりした。それを口惜しがっておこる少女の心はますます荒み、顔はみにくくなる一方だった。
ところがある日のこと、その村に一人の旅の老人が通りかかり、竹の棒をふりまわして怒り狂う泥かぶらに向かって、次の三つのことを守れば村一番の美人になれると教え、自分はまた旅をつづけていくのであった。その三つのこととは、いつもにっこりと笑うこと自分のみにくさを恥じないこと人の身になって思うことであった。
少女の心は激しく動揺するが、美しくなりたい一心でその日から血のにじむような努力がはじめられる。決心は何度も中断され、あきらめようとするが、また気をとり直してはじめる泥かぶらの顔からはいつしか憎しみが去り、その心はおだやかになってゆく。明るく気持ちのよい少女は村の人気者となり、子守にお使いにと重宝がられる者となったのであった。
そんなある日、同年輩の娘が人買いに買われてゆくのを知った泥かぶらは、喜んで身代わりとなり連れられてゆく。道中でたのし気に村の様子を話し、自分がかわいがった村の赤子たちについて語る少女の心はいつか狂暴な人買いの心を動かし始めたのであった。
彼は前非を悔い、置手紙を残して立ち去ってゆく。その手紙には、「ありがとう。仏のように美しい子よ」と書かれてあった。そしてその時泥かぶらは、かつて旅の老人が約束した言葉を理解したのだった。

■人の顔の美しさというものは目鼻立ちの良さよりもやはり自分が努力してつくってゆく美しさであり、生きている美しさだと思う。整った顔とか、形のよい顔というのは生まれながらのものかも知れないが、美しい顔というのは、生活の中に生まれ、彫りきざまれて出来たものである。
男女の別なく顔はその人の心の生き方のあらわれだ。年をとっていよ増す美しさ、また素顔の美しさを、もっと大切にしてゆきたい。ほほえみは、お金を払う必要のない安いものだが相手にとって非常に価値をもつものだ
ほほえまれたものを豊かにしながらほほえんだ人は何も失わない
フラッシュのように瞬間的に消えるが記憶には永久にとどまる
どんなにお金があっても、ほほえみなしには貧しくいかに貧しくても、ほほえみの功徳によって富んでいる
もし、あなたが誰かに期待したほほえみが得られなかったら不愉快になる代わりにあなたの方からほほえみかけてごらんなさい実際 ほほえみを忘れた人ほどそれを必要としている人はいないのだから
とかく期待したほほえみや、あいさつ、やさしい言葉が得られないと不愉快になり、自分からも相手に「してやるものか」という気持ちになりやすい。しかしよく考えてみると、できない相手こそ、それを私から必要としている人なのだ。ここに思いやりがあり、相手の出方に左右されない主体的な生き方がある。

■『『ある日、弟子たちがキリストに向かって、「先生の説いておられる愛とはどういうことですか」と尋ねたところ、
キリストは、「自分にしてほしいと思うことを他人にすることだ」と答えた。
理解されたいと願う人は、理解する人になること、慰められてうれしかったら、他人にもやさしい言葉をかけること、愛された喜びを他人に分けることが愛である』
自分からは何も出さず、「ちょうだい、ちょうだい」とまわりに何かを要求ばかりする人は多い。自分のことを認めてくれない、誰もやさしい言葉をかけてくれない、誰も誘ってくれない、という「くれない族」だ。

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