『擬(MODOKI)』

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編集工学研究所所長、イシス編集学校校長で、
読書家として知られる松岡正剛

「世」はすべて「擬」で出来ている

金銭を稼ぐことが目的として成り立たなくなり、
結婚の意味すらも曖昧になってしまった現在、
人間の営みそのものを考えることに、
とても大きな意味がある。

われわれが前提として受け取っているさまざまな事柄を
疑い、考察することで
世の中の真実や本質を明らかにして行きます。

社会にはいろいろ継ぎ目があって、
この継ぎ目にかかわるところには
人知をめぐる「ゆるみ」というものがあり、
手続きの「ぐあい」というものがある

微妙な継ぎ目と手続きにことごとく首尾一貫をもちこむと、
社会は次から次へと責任問題の所在判定と
その処罰とで埋め尽くされていく

カール・ポパーは「世界」を3つに分けて、
世界1を物理生物的な出来事に、
世界2を心的な対象と出来事に、
世界3を客観的な知識の世界にあてた。
一見、賢い区分のようだが、とてもつまらない。
なぜなら、世の中は混ぜこぜになっているからだ

「言ひおほせて何かある」は、表現できたからといって
それでどうしたの、何かをまっとうしたのという問いだ
表現するなら高きを知って俗に降りてきなさい

できれば思索と仕事と表現のあいだに、
科学やアートやコンピュータのあいだに、
「寂」や「絶間」や「おもかげ」が.残るようにしたい

ぼくが注目してきた仕事師たちは、内と外のどこかをつなげ、
内と外とをひっくり返していることが多い

どんな仕事も「あらわれている」を「あらわす」に
変えようとすることで成り立っている

日本語の「世」とは、竹の節と節のあいだのことをさしている

日本では「定め」と「世間」と「諦め」とは同義語に近い

「消費の欲求こそ、それに対する生産の欲求にくらべて
はるかに急速に模倣され、容易に広がっていく」
(タルドの模倣論)

「模倣可能性こそが文明文化の蓄積だった」(タルドの模倣論)

結局、世の中は「発明されたもの」か「模倣されたもの」かで
埋まっているだけなのである

人間の「世」の数々の営みの歴史のなかで、
最も多くおこなわれていたことが何かといったら、
おそらく好感(exchange)だったろう

モドキはそもそもが「何かのモドキ」であったのだから、
そこには必ず「何かの」がくっついている。
そして、その「くっついた何か」が日本文化の景色の中を
ずうっと摺り足で動いていく。
ここが重要だ。
日本の芸能は、この「何かの」を面影として継承するために
「擬きの芸」に徹した

エンジンオイル、OEM仲間の経営塾より

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