『絶対悲観主義』

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楠木健

僕はまだ初老段階にあります。本格的な高齢者経験はないのですが、年を取っていくといよいよ知性の勝負になるという気がします。高齢化問題の最終的な解は教養にある、というのが現時点での僕の考えです。

学生の中から傑出した秀才が出てくるのは、学校という小さな社会に押し込められているからです。しかも、能力が試験の成績という単純な尺度に一元化されている。他者との違いが量的にはっきりと出るから、ずば抜けているように見えるだけで、子どもは子ども、実際には大して差がない。

ところが、七○代、八○代になると人間のレベルに差が出てきます。よく生きている人と、そうでもない人の違いが露骨に表れる。長い人生の中で、一方は好循環を、他方は悪循環を起こすので、どんどん差が開いていく。

この差の根幹にあるのは、知性と教養だと考えています。
自分を客観視する。世の中での自分を俯瞰して見る。具体的なことごとの背後にあるものを抽象化して本質をつかむ。ようするに知性です。
何よりも自分の経験と頭と言葉で獲得した価値基準を持ち、精神的な自立と自律を保てているか。つまりは教養です。

昔話の定番プロットに「いいお爺さん(お婆さん)」と「悪いお爺さん(お婆さん)」の対比があります。「舌切り雀」「花咲か爺さん」はその例です。
高齢者が人格の良し悪しのモデルになっている。年を取るほどその人の本当が出るというのは、昔から変わら ない。
料理店でたまに機嫌が悪そうにしている高齢者を見かけます。注文の仕方がぞんざいで、お店に対して高圧的に文句を言ったり、あれはできないのか、これをしろ、これはするなと、やたらに過剰要求を繰り出す。相手の事情に目が向かず、ひたすら自分都合で考える。自分にとっての目先の利害で頭がいっぱいで、他者に対する寛容さがない。自分に問題があ るのではなく、周囲が悪いと考える。他者依存が強く、自律性に欠ける。精神的に自立していない。一言で言えば、幼児化です。

子どもは何でも自分の思い通りいくという前提で生きています。自分の思い通りにならないことがあると機嫌が悪くなる。赤ちゃん返りの退化の果てに 「悪いお爺さん」が出てきます。
「人生100年時代」は単に物理的な寿命を言っているに過ぎません。医学と科学の発達で、人間のハードウェアは100年間作動する時代が近いうちに来る。しかし、ソフトウェアがハードウェアについていくかどうかはまた別問題です。
ソフトウェアが劣化したまま、ハードウェアだけが100年間動き続けるというのは、果たして幸せなことなのか。僕は大いに悲観的です。

絶対悲観主義とは、たとえば、仕事においても、お客がいる以上、趣味のように自分の楽しみのためだけに自由にすることは許されません。だから、仕事は、自分の思い通りには、なかなかならないということです。そして、「世の中は甘くない」「物事は自分の都合のいいようにはならない」もっというなら「うまくいくなんて1つもない」と思い定めることです。

仏教の出発点は「一切皆苦(いっさいかいく)」です。人生とは、思い通りにならないことを知ることから始まるということです。仏教でいう「苦」とは、思い通りにならないことをいいます。なぜ、「苦」が生じるかというと、それは「諸行無常」という、すべては移り変わるからです。仏教でいう「苦」は、生老病死の四つです。生まれたということは、そこから苦が生じるので、「生」も苦です。老いることも、病気になることも、死も自分の思い通りにはなりません。
まさに、「絶対悲観主義」も、人生は、「思い通りにはいかない」と覚悟するところから始まります。いくらお金を払っているお客だからといっても、自分の思い通りにいかないことは多くあります。暴走老人や、老人クレーマーという、いわゆる「シルバーモンスター」にならないためにも…年を重ねるごとに、知性を身につけ、人生は思い通りにはいかないもの、と思い定めねばなりません。

エンジンオイル、OEM仲間の経営塾より

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