革新的イメージを生み出す精神

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 米沢富美子

目で見て確かめる事ができないもの、 まだ、誰も見た事がないもの、そんなものある筈ないと信じられているもの。それらをイメージし、他の人にも分かるように表現する。

それは無秩序の中から秩序を出現させ 曖昧さや不透明さの中に法則を見出そうとする精神の営みである。その革新的な精神の連携が それまで世の中に無かったものを出現させる。

発明や発見には偶発性がつきものだ。ただ、漫然と日々を過ごしていては新しいものをイメージする事はできない。多様な知識や過去のデータの蓄積があってこそ人間の直感は働くのである。  

このイメージする力こそ人間の持つ最も優れた能力でありイノベーションの源である。

エンジンオイル、メーカー、OEM仲間の経営塾より

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人生を幸せにするのは笑顔。

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門川義彦

人生を幸せにするのは笑顔。笑顔のない企業は滅びる。逆に笑顔のあるところは元気になり、強みを発揮し成長する。笑顔は、お客様の心を開き、結果としてお財布を開くから。

笑顔がコミュニケーションを生み、お客様の心を掴みます。これは、ビジネスに限らない。笑顔こそ、人間関係の潤滑油だ。
偏差値よりも、笑顔の力が人生を幸せにしてくれる。笑顔の時、人は生き生きと輝いて見える。それが伝わり、相手も和み、心を開く。

笑顔は伝染し、自分も周りの人をも元気にする。その結果、運や幸せがやってくる。
人間は、歳を取るほど顔の筋肉が緩み、口角とホウレイ線が下がる。しかし、笑顔になれば口元が上がり、若く見える。笑顔が健康に良いことも、既に医学研究で知られている。心をポジティブにしてくれるからだ。

IT化が進む今ほど、笑顔が求められることはない。ネットワーク社会は暗い情報が蔓延しやすい。美味しい情報より、不味い情報、良い情報より悪い情報の方が瞬く間に広がる。残念ながら、それがネット社会の現実だ。だからこそ、笑顔が大切になる。

グローバル化が進み、文化の異なる人と接触する機会も増えた。相手には、はっきりと意志を伝えなければいけない。これまで美徳とされてきた「伏し目がちの文化」、曖昧さを尊重する文化では難しい。
しっかり意志を通じあうことが求められている。コミュニケーションを生む笑顔が必要とされている。

エンジンオイル、メーカー、OEM仲間の経営塾より

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『ヨイショの技法』

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グループ・ニヒト

何かを進言するときは、「釈迦に説法ですが」「ご存じだと思いますが」って添える。

ヨイショは、次の三つの要素がそろったときに、もっとも効果的だ。
(1)ほめる(2)へりくだる(3)好意・思いやりを示す

ヨイショをするときは、「服装のセンスがいい」「仕事に熱心である」など、できるだけ的確で具体的な事柄を対象にするようにしましょう

Y(ヨイショ)スポット
(1)相手の自覚しているプラスの要素
(2)相手の自覚していないプラスの要素
(3)相手の自覚しているマイナスの要素

まず、ヨイショは声のトーン(調子)が大事です。ヨイショのトーンを操ることを「トーン・コントロール」といいます。トーン・コントロールの基本は、相手の調子・テンション・気分に合わせることです

わかりにくい喩えフレーズをいう
ex 雨の中立っている人に
あなた「あなたは紫陽花みたいな人ですね」
相手「どういうことですか?」
あなた「雨が似合うってことですよ」

相手が新しく着てきた服というのは、非常にわかりやすい「Yスポット」仮に相手が「これ、10万したんだよ」などと具体的な数値つきで自慢をしてきた場合は、「すごーい!」でOKです。「高ーい!」はダメです。「そんなしょうもない服が……」という響きが出てしまいます

まわりの人の髪型が変わった場合は、すかさずヨイショへりくだることはヨイショの要素の一つですが、趣味の場面では、それがより重要になります。趣味の話を熱心にしたがる人の根底には、90%以上の確率で「お前は知るまい」という優越感があります

exお茶を出してもらったとき
あなた「いやぁ、おいしいですねえ」
訪問先「わかりますか? じつはこれブラジルから送ってもらった特別なコーヒーなんですよ」
あなた「いいなぁ、こんなコーヒーを出す会社に勤めたい」

エンジンオイル、メーカー、OEM仲間の経営塾より


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『宇宙を貫く幸せの法則』

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小林正観

聖書の中に「汝(なんじ)、なぜかなぜかと問いかけることなかれ」という言葉があります。
よく相談や質問をされる方は、「なぜ、なぜ」とおっしゃいますが、問いかけた瞬間に、問いや相談の形をとって、その現象を否定しています。
「なぜこんな病気に?」。それは「病気が気に入らない」と言っています。
「なぜ夫がゴルフばかり?」。「それはゴルフ好きの夫が気にいらない」と言っています。

自分の身の回りで起きていることについて問いかける必要はない。それはそれでよし、と「受け入れる」。「タ行 たんたんナ行 ニコニコハ行 ひょうひょうマ行 もくもく」で生きていくと楽なのです。

《今現在、取り囲まれている状況をすべて受け入れる。現在も受け入れる。
そして未来のことも全部受け入れる。そうやって、受け入れて感謝に変わった瞬間に、宇宙全部があなたを全面的にサポートする方向で動き出します》

《自分の口からでてくる言葉は、「言えば言うだけもう一度それを言いたくなるような現象が降ってくる」というのが、宇宙の法則です》

『目の前に心を閉ざした人がいるとします。
あなた、氷のままではいけません、暖かい人になりなさいなんて一般的に気安く言えません。方法論もなく効果のほども知らず、というのでは喧嘩になるかもしれません。

でも、たった一つ方法があります。「自分が太陽になる」ことです。自分が北風のままであれば、その人の氷はいつまでも溶かせません。
自分が自分で太陽になる…、これは簡単です。相手を変えるのではなく自分が変わるのですから。
小乗仏教でいう「自分が悟ればいい」のです。自分が太陽になればそれでいいのです。自分が太陽になれば、その結果、周りの人が安らぎを覚えて暖かくなり、楽しくなり、やる気が出てくるかもしれません』

これは病気に対する方法でも同じ。病気を敵とみなし、敵に宣戦布告し、やっつけてやると息巻けば息巻くほど、敵はますます負けるものかと頑強に抵抗する。喧嘩になって得することはない。
病気に喧嘩を売らなということは、病気を受け入れ「たんたん」、「ニコニコ」、「ひょうひょう」、「もくもく」とやっていくこと。

それが、「自分が太陽になる」こと。

エンジンオイル、メーカー、OEM仲間の経営塾より

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教養としてのテーブルマナー

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小倉朋子

まわりに配慮するには、「自分の心のベクトル」は外向きである必要があります。しかし、お箸やカトラリーは内向きでなくてはいけません。
ナイフやフォーク、お箸の先端を相手に向けない
絶景の作者である料理人を尊重し、なるべく最後まで崩さないように食べましょうというのが、この「絶景キープ」の法則です。下から始まって上で終わっている場合は上から、奥から始まって手前で終わっている場合は手前から、という具合に、盛り付けの「終わり」を見極めれば、たいていは絶景を崩さずに食べ進めることができる

料理を表現する「語彙力」にマナーと教養が表れる

中国や韓国では、器を持ち上げるのはタブー

和食の料理人を「板前」と呼ぶと思っている人は多いようなのですが、「板前」の意味は「板の前にいる人」。つまり本来、「板前」とは、まな板の前でお造りを担当する最高位の料理人だけの呼称

おしぼりを使うのは自分の手を清めるときだけ、つまり「食事の前だけ」

■フランス料理いついかなる場でももっとも気にかけるべきは、「女性を寂しくさせないこと」と「高齢の方を寒くさせないこと」

■中国料理「取り箸を使わない」のは信頼の証魚の骨、肉の骨、甲殻類の殻などを自分の取り皿に置くのは、中国料理では無作法とされています。残余物はテーブルに置き、「こんなにテーブルやクロスが汚れるほど、みなで楽しみました」と示すのが正式なマナーです

■イタリア料理パスタは「山の頂上」ではなく「山の裾野」から食べ始める

■韓国料理年長者の真正面を向いたままお酒を飲むのは失礼に当たるので、必ず顔を横に向け、さらに口元を左手で隠しながら飲みましょう

■インド料理チャパティやナン、野菜などが大皿にまとめて盛られている場合、そこから自分の分を取るときは、むしろ左手を使うのがマナー

<「正しさ」よりも「敬意」>

エンジンオイル、メーカー、OEM仲間の経営塾より

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『「頭がいい」の正体は読解力』

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多摩大学名誉教授、樋口裕一

日本人の読解力が落ちている!
そのようなことが話題になる。

先ごろ、教科書を読み取れないために、
科目の内容を理解できず、
数学の問題を解けない生徒が話題になったが、
それは教育に携わっている人間にとっては、
今さら驚くほどのことではない。

新聞を読めない。
記事の内容が難しくて理解できないだけではない。
「天声人語」などのエッセイも文意を理解できない。
筆者の主張を正反対にとらえる生徒もかなりいる。
文中でたまたま目についた箇所を
その文章の主張だと思い込む生徒も多い。

教科書ももちろん理解できない。
家電の取扱説明書も理解できない。

それどころか、多くの若者が
ものを読んで理解するという行為を苦手としている。
教科書や学習参考書は文字が大きくなり、
図版が増え、急激に文章による情報を減らして、
わかりやすくなっている。
だが、それでも理解できない生徒が増えているので、
ますます易しい教科書や参考書が求められるようになる。

学習参考書の出版社は競って
易しい言い回しの読みやすい本を作ろうとする。
それでも理解できる人が減っている。

私は大学受験小論文の指導をしているが、
実感としては、新聞記事や教科書を
ほぼ誤りなく理解して読める高校生は
難関校と呼ばれる大学に合格できるレベルの生徒たちだ。

そのような難関校に届かない生徒の大半は、
易しい文章であっても
しばしば読み取れないことがあると考えて間違いない。

なぜ、読解力が落ちているか。
言うまでもないことだが、
読書量の決定的な不足がその原因だろう。

スマホが普及する前は、あれこれ言われながらも、
日本人はそれなりには本を読んでいた。
少なくとも新聞を読み、雑誌を読んでいた。
低俗な雑誌や新聞も多かったが、
ともあれまとまった文章を読んでいた。

大ベストセラーになる書籍もしばしば現れた。
読書が趣味という人は大勢いた。
小説が多くの人の話題になっていた。
だが、今ではそのようなまとまった文章を読む人は少ない。

新聞は発行部数を大幅に減らし、
雑誌の多くが廃刊に追い込まれている。
電車の中でも、新聞や文庫本などを読んでいる人を
見かけることはほとんどない。
乗客のほぼ全員がスマホをのぞき込んでいるというのは、
今はごく日常的な電車内の光景だ。

ネット内を駆け巡る文章は、短文がほとんどだ。
複雑な状況を語ったり、深い思念を語ったりする文章は
ネット内にはみあたらない。

一目で理解できるような文章だけが幅を利かせている。
これでは読解力が養成されるはずがない。

多くの若者が学校の教科書と試験くらいでしか文章を読まない。
文章を読む習慣を持っていない。

しかし、言うまでもないことだが、
現在でも文章を読むことは大事だ。
文章を正確に読み取れないと、
人の意見を理解することができない。

日常生活での会話さえも
しばしば誤解するといったことが起こるだろう。
人の語っていることが理解できず、
大きく曲解してトンチンカンなことを言う人がいるが、
それは読解力のない人だ。

きっとそんな人は周囲からバカな人間と思われているだろう。
いや、そもそも文章を理解できないと、
日常生活に支障をきたす。
役所からの知らせ、銀行からの通知さえも
理解できないことになる。

そして、そもそも読書という、
人類が数百年前から行ってきた最大の楽しみを
味わうことができないことになる。
文学作品を理解できず、ミステリーの醍醐味を知らず、
恋愛小説の恍惚も知ることができない。

そして、それ以上に、文章をしっかり読まないと、
この複雑な現実世界を理解することができない。
簡単な図式や数百字の文字で
人間の心や社会のあり方を理解することはできない。

現在起こっていることを理解し、その複雑な関係を把握し、
これから先の行動について推論し、
自分の意見をまとめるには、
新聞を読み、専門誌を読み、専門書を読みこなす必要がある。

それができてこそ、現実を分析し、
将来についての展望を持つことができる。
それができてこそ、専門家の意見を参考にして
自分の考えをまとめることができる。

言うまでもなく、文章は思考そのものの跡を示す。

文章をたどれないということは、他人の思考をたどれない、
つまりは他人の思考について
思考できないということにほかならない。
言い換えれば、自分で考えることができない
ということでもあるだろう

〇樋口裕一「クレーマー」

『クレーマーの多くは、読み取りができないために、
自分が正しいと信じ、
周囲の常識的な読み取りが理解できずに、
孤独な攻撃をしているのではないか。

クレーマーといわれる人たちに読解力テストをしたら、
惨憺たる結果がでるのではないか。

クレーマーが増えているといわれる。

もちろんそれには、読解力のない人が
発信する手段を得たこと、
以前は片隅で押し黙っているしかなかった人が
権威に対して発信してもよいという
意識を持つようになったことが原因として挙げられるが、
もう一つ、読解力の低下という問題もあるのではないか。

逆に言えば、読解力をきちんとつけ、
文書を読み取れるようになれば、
状況も人の心も今より読み取れるようになり、
多くの人が周囲と健全なコミュニケーションが
取れるようになるのではないか。』

確かに、ブログなどでも、「文意を理解していない」、
「曲解している」、「全部最後まで読んでいない」と
みられるコメントが少なからずある。
その極端な例がクレーマーだ。

読解力の低下は読書をしなくなったためだと言われる。
読解力は単に本を読むだけでは身につかない。

実際に自分で書いてみることも読解力を高めることには必要だ。
自分で書くことで、微妙な表現力や単語力も増し、
レベルアップする。
それが読解力には大きな力となる。

エンジンオイル、メーカー、OEM仲間の経営塾より

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『感謝できる人は心が愛で満たされている』

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M.J.ライアン

《あなたには価値がある》

冬休みの一週間、娘が大学の友人を自宅に招待した。私はお客さまを迎える側として、ごく当たり前のことをした。清潔なシーツとタオルを出し、ベッドの脇のテーブルに花を生け、お客さまの食事の好みを前もって調べておいた。夕食の席では楽しい会話を心がけ、相手の趣味や家族、将来の夢や希望について、失礼にならない程度に尋ねた。そして一週間が終わると、彼女は帰っていった。

感謝の言葉も行動も特になかった。お礼の手紙も、プレゼントも、電話もなかったのだ。もちろん私は、感謝されるために娘の友だちをもてなしたわけではないし、腹を立てているわけでもない。むしろ、彼女の態度にとても興味があると言ったほうがいいだろう。ああいう、まったく感謝の気持ちのない態度は、いったいどうやって生まれるのだろうか。娘にそのことを話すと、じつは娘もその友だちとのつきあいで苦労していることがわかった。とても自尊心の低い人だという。「彼女は自分の見た目に自信がないし、間違ったことを言ってしまったとよく気にするし、 自分は頭が悪い、面白くないと思い込んでいるの。私はいつも『そんなことないよ』って励まさなければならないのよ」と、娘は不満をもらした。

それを聞いて、私は急に納得がいった。あの若い女性は自分をあまりにも低く見ているために、誰かが自分のために花を生けたり、おいしい夕食を用意したりするなんて信じられなかったのだろう。私のもてなしに気づかなかったのは、彼女自身が自分の価値に気づいていないからだった!
感謝の気持ちを持つには、何かを与えてもらったことに気づかなければならない。その何かは、きれいな髪を持って生まれたことかもしれないし、タヒチへの旅行や、魅力的な 新しい仕事かもしれない。

感謝とは、贈り物を受け取ったことへの反応だ。だから、自分が贈り物を受け取ったことに気づかなければ、感謝の気持ちも生まれてこない。そして、自分に贈り物を受け取る価値があることに気づいていないときも、感謝の気持ちは生まれてこない。

自尊心の低さは、人から感謝という喜びを奪ってしまう。自尊心の低い人には、与えられたものを置く場所がないからだ。ただ生きているというだけで、私たちはいつでも贈り物を受け取っている。それはもしかしたら、ただの新しい一日かもしれないが、とにかく受け取っていることに変わりはない。そして私たちは、ただ生きているというだけで、十分に価値のある存在だ。

もしあなたが、自分の人生の中に贈り物を見つけることができずにいるのなら、自尊心を高める必要があるのかもしれない。

作家のマヤ・アンジェローは、オプラ・ウィンフリーとのインタビューで、なぜ数々の困難に見舞われながらも自分を信じつづけることができたのかと尋ねられた。
アンジェロ ーは、神に愛されていると気づいた瞬間から、自分を疑うことはなくなったと答えた。神が愛してくれている自分を、どうして疑うことなんてできるだろうか、と。あなたは、すべての贈り物を受け取る価値があるのだ。

〇自尊心が過剰に高いと問題になる。しかしながら、自尊心がなければ、他人からもらう、愛情や、気づかいや優しさやほめ言葉を受け取ることができない。家族や親しい人からの愛情をいっぱいに受け取って、心が愛で満タンになっている人は、良い意味での自尊心がある。だから、他人から多少嫌なことをされたぐらいではグラつかない。
だが、子供の頃からあまり愛情を受け取ってこなかった人は、自尊心がとても低くなる。自尊心が低く自分に自信がなければ、他人を思いやる余裕ができない。そして、自分のことばかり考えてしまう、利己的な行動をとってしまう。だから、感謝ができない。

どんな場面でも、感謝できる人は心が愛で満たされている人だ。

エンジンオイル、メーカー、OEM仲間の経営塾より

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『人生、勝負は後半にある』

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田中真澄

《人生、勝負は後半にあり! 能力開発は年齢不問》

潜在能力の開発は年齢不問です。20世紀までは「人生は60歳までが勝負」の思いできましたが、平均寿命が伸び続ける長寿時代、「人生は65歳からが勝負」との考え方が必要です。

人生の勝負が後半に移って、定年以後の生き方が問われるのです。65歳以後も活き活き生きるには、100歳まで生きる可能性に賭け、死ぬまで働く終身現役を目指すことです。少なくとも定年後は、年齢不問の潜在能力の開発にどこまでも挑戦し、得意なことを仕事にしながら、己を高めていく生き方を選ぶべきです。

私たち凡人にとって怖いのは年齢情報です。例えば還暦を迎えた人は「もう60歳」と受け止めても、「まだ60歳だ」とは思いません。
人間は、前向きに生きることを心掛けていれば、いくつになっても自分の能力は開発していけるのです。

そのことを教えてくれたのは日本の正確な地図を初めて作成した伊能忠敬です。彼は千葉県佐原の大地主で醸造業を営む伊能家に17歳で婿養子に入り、49歳で家督を息子に譲るまで家業に専念し、伊能家を繁栄に導きました。
しかし彼が本当にやりたかったことは天文学と国土の測量でした。そこで50歳で息子に家督を譲ると、江戸に出て、19歳も若い幕府天文方・高橋至時に弟子入りし猛勉強。ついに至時が舌を巻く程の力をつけたのです。
そして55歳から73歳で亡くなるまで日本全国を踏破し、後半の人生を測量に傾けました。伊能忠敬の後半の人生を知ると、勇気が湧いてきます。
好きなことを本気で続けていけば、年齢を超越して願望を達成できることを実感できるからです。

〇「人生、勝負は後半にあり! 」とは、40代でも、50代でも、もちろん60代でも言えること。
少し小金が貯まったとか、家賃収入や年金があるからと、プチリタイアを目指す人は多い。リタイアという言葉を発した瞬間にその人の成長は止まる。
色々なことに対する興味や好奇心が薄れ、社会との接点もなくなってくる。つまり、呆ける道をまっしぐら。

若い頃から、人からの頼まれごとを気持ちよくやってこなかった人は、人生後半になっても頼まれごとはやってこない。頼まれたときに、嫌な顔をしたり、引き受けるにしても何か一言テンションを下げるような嫌みを言う人には、二度と話をもっていこうとは思わないからだ。
「頼まれごと」とは、仕事はもちろんのこと、PTAや町内や、ボランティアや公的な役職などにおいて頼まれたことも同じ。

「頼まれごと」は、たいてい、面倒くさかったり、時間がとられたり、今までやってこなかった初めてのことも多い。
人生の後半に自分のやりたかったことをやる、夢の実現にチャレンジする、という行動ができる人は素晴らしい。
しかしながら、自分の夢がなくとも、人からの頼まれごとをあれこれ、ヘトヘトになりながらやり続けるという人生にも味がある。
それは、人のために生きる「頼まれごと」の人生だ。どちらの人生を生きるにせよ、「人生、勝負は後半にある」。

エンジンオイル、メーカー、OEM仲間の経営塾より

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大丈夫だよ、すべてはうまくいっているからね。

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斎藤一人

努力家で才能のある人は、同じように努力家で才能のある人を好みます。そして、才能もなくて努力もしない人を見ると腹を立てるんです。
そういう人って、他人も自分と同じだと考える傾向があります。他人の行動が自分と同じくらいにできないと、特に我慢できなくなる人が多いんだよね。だから、ついつい「なぜ、言ったことができないの?」とか「なぜ、そんなことができないの?」と言ってしまうんです。

リーダーや上に立つ人には、必ずそれを支える人がいます。けっして1人だけでやっているわけではないんだよね。
誰かを支えている人って、例えるなら櫓の土台みたいなものなの。注目されるのは乗っている人だけど、支える人がいるからこそ、安全が保障されています。
だから、上の人が下の人の悪口を言ったり、欠点ばかりを指摘したりしていると、その人たちが逃げていってしまって土台がなくなり、悪口を言った人は櫓の高いところから落ちてしまうことになるでしょう。

カリスマ美容師みたいな人も、才能があって、努力もしたんです。だから、それが当たり前だと思ってしまいます。すると、それができない人に怒ったり、腹を立てたりしてしまうんです。
でも、そんなことを続けていると、ある日お店に行ったら「誰もいなくなってた」ということになってしまいますよ。美容室って予約を取ってくれる人がいて、髪の毛を洗ってくれる人がいて、 片づけたりしてくれる人がいるからこそ、いろんなことが仕事として回っていくんだよ。

上ばっかり見ていると、そんな簡単なことがわからなくなるからね。だから、「給料を払ってるんだから当たり前」とか「こんなことぐらい、言わなくてもやれて当たり前」じゃなくて、「ごくろうさま」とか「ありがとうね」とか「偉いね」って言って感謝をするの。
そうすると働いている人も「あのカリスマ美容師がこんな私にも感謝してくれた」って喜んでくれるんです。

どんな人でも自分のことを尊重されないと腹を立てます。そして、尊重されると誰だって嬉しいんです。自分の仕事がどうやって回っているのか。上に立つ人間であればあるほど、ちゃんと考えなよ。

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『神さまに好かれる話』

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小林正観

《今、目の前にいる人、目の前にあることが重要》

私たちの周りで起きているすべての現象、人生のあらゆる出来事に、〈重要なこと・重要ではないこと〉〈大きいこと・小さなこと)の区別は、実はありません。というのは「小さいこと」の定義を言ってくださいと言われても、誰も答えられないからです。
何らかの現象について、そのときは、小さいこと、些細なことと思っていても、それがなければ、今の自分はなかった、ということを考えたら、(大きいこと・小さいこと)の区別は、つきません。

このことを、実際にあった状況を取り上げて説明しましょう。
私が出た高校の同級生の一人が、大学にも行かず、就職もしないで、とりあえずアルバイトとして晴海のイベント会場でコーラの販売をしていました。そのとき、コーラ売り場の前をアメリカ人の夫婦が通りかかり、70歳ぐらいの歳のご主人が足を滑らせて倒れてしまいました。彼は自分の売り場の前ですから、走り寄って助け起こし、ケガの手当てをしたりとかいろいろ世話してあげたそうです。そしたら、「あなたのような親切な人に、初めて会った」と、その夫婦は大変感激し、「実は、私たちは結婚して40年も経ちますが、子どもがいないのです。あなたさえよければ、 私たちの養子になりませんか」と言われました。
彼としては、別にほかにすることもなかったから「わかりました。いいですよ」ということで、アメリカに渡り、その夫婦の養子になりました。
彼はそこで英語を覚え、大学にも行かせてもらい、卒業してからは企業買収の専門家になりました。今は日本に戻り、その分野で大手の外資系企業の社長をやっています。

コーラの販売をしていた、その前で人が滑った、その人を助けてあげた、これらはすべて小さいことのように見えますが、結果としては小さいことではありません。因果関係がわかったときには、一つひとつがものすごく重要で大変な出来事だったと、気がつくでしょう。

優先順位とか、出来事の大きい小さい、とかの区別がないことを、さらにわかりやすく説明します。
人生はドミノ倒しだと思ってください。ドミノ倒しの如く、人は連続した瞬間を生き、最後の一個がパタッと倒れて、人生を終えます。これらのドミノは、すべて同じ材質で、同じ厚さで、同じ形状です。大きい小さいはありません。重さも全部一緒。それが一個ずつ、ただ淡々と倒れていくだけです。
自分の目の前に現れる人が、小学生であろうが、中学生であろうが、大人であろうが、大会社の社長であろうが、出会う人は全部一緒です。それを一緒だと思えるかどうかに、その人の人間性が表れます。
社会的な地位や権力といったものを背負ってるかいないかで人を見るのは、まだ自分の中で本質的なものが形成されていないからです。出会うすべての人、どんなに些細に見える行為も、人生を成り立たせるうえでは、どれも必要不可欠なことであり、ドミノの一個一個が同じ価値だということに気がつくと、何も怖くなくなります。

人生で最も大事なのは、今、目の前にいる人です。一人ひとりをきちんと受けとめていくことで、その後の人生を組み立てていける、ということです。この一個一個のドミノ、それ自体が結果であり、次のドミノを倒す原因になっています。倒れた「私」が、また次のドミノを倒していく。今、目の前にいる人を大事にすることが、私の未来をつくっていくのです。人生は、その繰り返しのように思えます。

〇「人間万事塞翁が馬(じんかんばんじさいおうがうま)」
幸福だと思ったことが災(わざわ)いだったり、災いだと思ったことが幸福だったりする。人生の幸不幸は予測ができない。だからこそ、様々なできごとに、一喜一憂してはいけない。有名人や成功者に出会ったから運がよくなるわけでもなく、通りすがりの名も知らぬ老人に出会ったことが、あとで考えると幸運の始まりだった、ということもある。

実践の哲学者森信三
「人は一生のうち逢うべき人には必ず逢える。しかも一瞬早過ぎず一瞬遅すぎない時に」運は人が運んでくる。縁(えん)は絶妙なタイミングで我々にやってくる。ただし、その縁を大事にするかどうかだ。
有名人だから大事にするとか、無名の人だからないがしろにする、というのでは良縁はやってこない。

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