『VAN 石津謙介の生きかた、遊びかた』

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僕は平気で年齢のことを話すので、会う人のほとんどが、
「えっ、本当ですか?」と驚いた顔を見せ、
その次に必ず、「お若いですね」とくる。
僕は、この言葉が嫌いである。
言う方は、お世辞かお愛想か、あるいは本当に呆れ返っているのかは
知らないが、
言われた方が、「てやんでぇ、若い訳があるはずないだろう。
こちとら80半ばを過ぎた正真正銘の爺さんだ」と啖呵の一つも切りたくなる。
自分が高齢者であることは、誰よりも自分自身がよく知っている。

高齢者にとって、いちばん重要な問題は「健康」である。
いくら長生きしようと、健康でなければ、豊かな人生の四毛作目の収穫を
得ることはできない。
僕がこの年齢になって、まがりなりにも仕事をし、
人生の四毛作目を享受できるのも、体と精神が健康だからである。
健康だからこそ、まだまだ世のために尽くすことができる。
僕は、今の健康を、もし、神が存在するのであれば神に感謝をささげたい。

また、人からよく、「長生きの秘訣は何ですか?」と聞かれるが、
僕自身、長生きを美徳とは考えていない。
不遜な言い方で、誤解を受けることもあるが、
僕の死に対するモットーは“丈夫で早死に”である。
要は、人生やるべきことをし終えたら、
なるべく早く若い人たちに後を譲りたい。
けれど、このモットーも、こう長生きしちゃ、意味をなさなくなりつつある。

長生きの秘訣という問題を真剣に考えてみた。そこで考えついたのが、
人間のストレスを生み出す根元の「執着心」と「欲」を捨て去ることである。
つまり、僕にとって、現在の年齢まで大病もせず、
まがりなりにも生きてこられたのは、
ストレスを適当に発散させる能力が自身に備わっていたからではないかと思う。要するに、人間、“いかにストレスを少なくするか”が、
若い人にとっても、高齢者にとっても、
快適な生活を送るための最重要課題なのである。

もう一つは、常に頭に栄養素を送ることである。
頭の栄養素とは、さまざまな情報のこと。
毎日、克明に新聞を読み、雑誌を読み、評判になっている本を読み、
さらにテレビを見、いろいろな人に会って、あらゆる情報を頭に詰め込み、
その後、情報を僕なりに選り分けて整理する。
この作業が「思考の動脈硬化」を防いでくれるのである。
好奇心を旺盛に保つのである。

「思考の動脈硬化」とは、今まで自分が体験してきたスタンダードを
後生大事に守る。そして新しいものや情報を、
そのスタンダードによってのみ判断することである。
僕は、それがいちばん恐ろしい。

さらに、腰の軽さも重要なファクターだ。
僕は、面白いことがあったり、美味しいものがあると聞けば、
すぐにすっ飛んでいく。その意味ではいたって腰の軽い男である。
人は、高齢者の仲間に入ると、極端に事を起こすのが億劫になるというが、
おかげさまで、僕の辞書に「億劫」という文字はない。

自分のことは自分でやるというのもいい。僕
は、たいがいのことは自分でやってのける。
年齢を重ねる毎に、他人との接触が億劫になるという人がいるが、
僕は、逆に人と会うのが楽しくて仕方がない。

ただし、同じような年代の人とは、よほど気の合った人でない限り、
会いたくない。というのは、ある年齢を超えた人々の集団の話題は、
ほとんど病気の話と家族に関する愚痴ばかりで、気が滅入ることはなはだしい。老人たちは毎日、病院かゲートボール場で、
そんな話をくり返しているらしく、
それではストレスが逆にたまって仕方がないと思う。
僕は、そのような場所に出入りすることは願い下げにしていただいている。

ところで、「忘年」という言葉をご存知だろうか?
そう、あの忘年会の「忘年」である。
一般には、その年の憂き辛さを忘れて、
楽しく騒ぐという意味にとられているが、実は違う。
本来は、「忘年の友」の「忘年」で、つまり年齢の差など忘れ去って、
親しく友として交わるという意味である。
そして、高齢者には、この「忘年の友」、
つまり異なったジェネレーションの話し相手が、ぜひとも必要なのである。
若い人の考え方や、自分とは違う業種の人々の話を聞くと、
「思考の動脈硬化」が薄れていき、常に頭脳に新鮮な刺激を与えることになる。特に、相手が異性であれば、他にもっと違った刺激が与えられるはずだ。
新しい友を探しに外へ出かける積極性もまた、長生きの秘訣の一つであある。

エンジンオイル、OEMの仲間の勉強塾より

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DIYテロ

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イスラム過激派組織、イスラム国が新たなリクルートを本格化している。各国の治安当局の捜査網をかいくぐる為だ。

「特殊技能、訓練不要」の単独テロの指南は、マニュアル化されている。大手SNSや検索サイトで簡単に見る事が出来る。すでに「DIY(日曜大工)テロ」との呼称もついている。

たとえば、大型トラックで大量殺戮を行う方法。「ダブルタイヤ」で「積荷満載」の大型トラックなら、何にぶつかっても壊すことができる。こうした大型トラックを盗んで、街頭の市場、お祝いの行事や政治集会、パレードに突っ込む。

それが、大量殺戮の手っ取り早くて、もっとも確実な方法だ。殺戮マニュアルをネット公開する決定的な利点は、それまで全くテロ組織と関係が無かった人間を、無差別テロに駆り立てられることだ。

単独で、誰の助けも借りずに行動に移す「ローンウルフ(一匹狼)」には
最高のマニュアルだ。
手間のかかる爆弾作りではなく、手軽に誰でも実行可能な手法ばかりが紹介されている。

エンジンオイル、OEMの仲間の勉強塾より

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英雄に必要なもの

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司馬遼太郎、竜馬がゆくより

「豊臣秀吉も徳川家康も、だまっていてもどこか愛嬌のある男だった。
明智光秀は智謀こそその二人より優れていたかもしれないが、
人に慕われ寄られる愛嬌がなかったために天下をとれなかった。

英雄とは、そうしたものだ。
たとえ悪事を働いても、それがかえって愛嬌に受けとられ、
ますます人気のたつ男が、英雄というものだ。竜馬にはそういうところがある。

「ああいう男とけんかするのは、するほうが馬鹿だし、仕損さ」
「竜馬は英雄ですか」
「においはあるな」
「しかし、彼には学問はありませぬ」
「もろこしの項羽は、文字は名を記すれば足る、」と言った。

英雄の資質があれば、それで十分さ。
書物などは学者に読ませておいてときどき話させ、
よいと思えばそれを大勇猛心をもって実行するのが英雄だ。
なまじい学問などをやりすぎれば、英雄がしなびてくる」

竜馬も、ニコニコした。その笑顔が、ひどく愛嬌があり、
(おお、みごとな男じゃ)と西郷は思った。
漢(おとこ)は愛嬌こそ大事だと西郷は思っている。
鈴虫が草の露を慕うように万人がその愛嬌に慕い寄り、いつのまにか人を動かし世を動かし、大事をなすにいたる、と西郷は思っている。

もっとも、西郷の哲学では、愛嬌とは女の愛嬌ではない。
無欲と至誠からにじみ出る分泌液だと思っている。

エンジンオイル、OEMの仲間の勉強塾より

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ゼロ戦の最強神話

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日米の当時の兵器を比べてみる。
日本陸軍の兵隊を見ると、衣服から小銃、機関銃その他の個人装備のほとんどすべてが質的に劣っていた。
歩兵のみならず、戦車や大砲も含めた火力も、日本が劣っていた。
ジープやトラックで機械化された兵站(補給能力)についても、雲泥の差があった。

航空機でも、それは同様だった。
ゼロ戦の圧倒的な優位性は、開戦から、せいぜい半年で終わっていた。
開戦当時の日本海軍のパイロットの技量は、世界最高の水準だった。
ベテランたちは、混戦の中でも大局を掴んで、最大の効果を生む術を知っている。
軽快な操縦性を持つゼロ戦は、良くも悪くも個人の力量をフルに発揮できた。
その反面、パイロットの力量に依存せねばならない戦闘機だった。

ゼロ戦の空冷星型14気筒950馬力の「栄」エンジンは、
アメリカのプラット&ホイットニー社の技術を使っている。
プロペラは、米ハミルトン社のライセンス品。
機関砲は、スイスのエリコン社のライセンス品。
無線帰投装置も米国製。海外製品のコピーを集めて作られていた。

エンジンの潤滑に必要なオイルは、作れなかった。
米国製品のストックが無くなったら、お終い。
再生油を使ったが、エンジンの性能は低下した。
大戦の後半に至るまで、ゼロ戦の防弾装備は無かった。
パイロットの育成には、手間と時間がかかる。
この為に、米軍機は飛行性能を落としてでも、
防弾装備をつけてパイロットの命を守っている。

日本軍機は、一撃で簡単に火を噴くことから、「ワンショット・ライター」と敵味方から揶揄されていた。
徹底した軽量化で極限までの運動性能を追求したゼロ戦も、甚だしく人命を軽視した戦闘機だった。
大戦中期以降になると、高高度性能、急降下性能などの機体性能が著しく米軍機より劣ってきた。
米軍機のエンジンは、ゼロ戦の2倍の馬力を持つようになった。
無線通信能力が劣っており、編隊空戦は困難だった。
レーダーとも連携できなかった。
様々な面で見劣りするようになり、
緒戦の無敗神話は、完全に色あせてしまった。

ゼロ戦は、最高でも最強でもなかった。しかし、極めて日本的な戦闘機だった。ちっぽけな島国が、大国と戦争しようと思うなら、他を犠牲にしてでも、最大限の性能を引き出さねばならない。
パイロットの錬度も極限に高めて、乾坤一擲、短期決戦で勝負を決めるしかなかった。
その意味では、ゼロ戦は最適解の一つだった。
日本海軍は、長期戦など想定していなかった。

エンジンオイル、OEMの仲間の勉強塾より

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家族は血縁で結ばれるが、その核になる関係は、血縁ではない。
核は、赤の他人同士の出会いによって生まれる。
血縁の核には、血縁ならざるモノが組み込まれている。
これこそ、根源的な縁である。

一人の相手と出会い、その人が自分よりも大切な人であることを発見する。
縁は、自力を越えている。自己や自我を超えている。
縁は、どこか自分の外からやって来る。
人間の作意を超えているから縁は尊い。

私にとっての、その人は、私以外の人にとっては、その人ではない。
私にとって、自分よりも大切な人は、他の人には、普通の人である。
これは発見ではなく、創造や創作である。
私よりも大切なあなたという感覚を、誰もが創りだせる事。
そうした創造力が、万人の中に眠っている事。
これが、人間を人間としてあらしめているもっとも根源的な情動だ。

一時的な錯覚や錯乱ではない。
錯覚や錯乱のような情動が、何万年にもわたり家族を存続させてきた。
人類を滅亡から遠ざけてきたのである。

エンジエオイル、OEMの仲間の勉強塾より

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駅伝から分かる日本人の気質

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我々は、駅伝を好み、大学や地域などの名誉を懸けて競争している事からも分かる。我々は、『仲間と共同して働く』事で、力を発揮し、また、『自分の努力が、仲間への貢献となる』事に至福を感じてきた。

外国人は、個人の成果が評価されず、個人の努力が、結果に全て反映されない駅伝を好むはずもない。日本人の強みである特性を新自由主義経済の主流化が破壊した。

我々が取り戻すべきは、他民族が決してマネできない『集団力の発揮』なのである。お互いの助け合いによって、個人の能力の合計値を超える力を発揮してきたのが我々なのだ。参加意識、当事者意識を持った組織構成員の集団パワーが、我が国を再生する。

エンジンオイル、OEMの仲間の勉強塾より

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