『弱い者いじめはしない』

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小林正観

子どもに向かって腹を立てる、怒る、怒鳴る、声を荒げる、お母さんがいました。「確かに怒鳴ったり怒らない方がいいとは思いますが、子どもが口答えをすると、本当に腹が立って、もっと激しく言い返してしまうのです」
イライラしているのは自分、イライラしなくなるのも自分です。子どもに対して、つい強く言ってしまうというのは、その方の弱い者に対する態度を示しています。
もし子どもが見上げるような大男であるなら、たぶん怒鳴りつけたりしないでしょう。自分よりも体が小さくて弱い立場だから怒鳴っているのです。そういう意味で弱い者に対して刃が向いている。

ですから私は、そいうことを辞めるように提案しました。そうすると、そのお母さんは、こう答えました。「でも、世の中のお母さんってみんなそうですよね」「でも」と話をかわす方は、みなさん同じようなことをおっしゃいます。「はい、分かりました。よく分かりました」とはなかなか言いません。「でも、世の中の人って、そうしてないですよね」「だって、みんなそういうふうにしていますよね」などと、同じようなパターンで話をかわそうとします。

自分の問題として受け入れなくてはいけない時に、必ず「うっちゃり」をくわせようとするのです。これをひと言で言えば「素直でない」と言えますね。
「受け入れない」ということを前提に一所懸命考えた結果、出てくるのが、そのうっちゃりの方法です。受け入れることができたら、たぶん「分かりました」と言うに違いありません。世の中のこと、世の中の人たちはどうでもいいのです。実際に世の中の大多数の親が子どもを怒鳴っているのか、感情的に声を荒げているのか、私には分かりません。
「世の中はそうなっていますよね」と言うのは自分の都合のいいように言っていることに他なりません。9割方の親は怒鳴っていないのかもしれないのに。

自分に都合の悪いことを言われた時に、「世の中の多くの人がそういうふうにしているじゃないか」とうっちゃりをすることは辞めることにしましょう。「そうか、それを辞めたら自分は楽になれるんだよね。それを辞めたら子どもと関係が良くなるんだよね」と思ったら、素直にそれをやってみてはどうでしょうか?自分の問題として「そうじゃない方がいい」と言われたら、「なるほど、そうですね」と受け入れた方が自分が楽になります。

また「怒る」という行為は、たいてい自分より弱い立場の者に向かって発せられる。自分より強い立場の人に向かって「怒る」ことはなかなかできない。
怒るという行為は、弱い者いじめであり、卑怯な振舞だ。弱い者に対する態度で、その人の人格のレベルが分かる。

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鈍感力

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どんなことに対しても一喜一憂しない心をつくるとものすごく人生が楽になります。何を言われてもニコニコできる強靭な魂に必要なことは実は、「ぼ―っ」とすること。

メンツやプライドを一生懸命に守ろうとする人は、実はものすごく弱い人なのです。自尊心が傷つかないように、身や心を守るのではなく、バカにされてもあざけられても、いっさい傷つかないで「そうなんですよね、ふふ」と言える人。これが本当に強い人だ。

テレビの討論番組を見ていても分かるが、相手を論破しようと、感情的になって大声を出したり、威嚇したりしても、たいていの人は論破されたとは思っていない。むしろ、感情的になっている人の方が見ていて恥ずかしい。その反対に、「柳に風と受け流す人」や「さらりとかわす人」、「うまくやり過ごす人」の方がカッコいい。

うまく受け流したり、かわしたり、やり過ごすのに一番いい方法が、「ぼーっ」とすること。「なにかと攻撃的な人に対しては」人間関係において、「ぼーっ」とすることは、時にとても大切だ。

『幸せとは、健康で記憶力が悪いということだ』
(アルベルト・シュバイツァー)

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『生涯現役』

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田中真澄

アメリカと比べて、日本が大きく遅れをとっていることの一つに、老年学(ジェロントロジー)の研究とその成果の普及があります。人間の加齢と高齢者の生き方を研究する老年学が、アメリカでは35年前から盛んです。

アメリカにはすでに500の大学で老年学が講義されており、老年学を専攻する学部が31あります。その結果、いろいろな関係機関で老年学を学んだ人々が数多く活躍し、老年学の研究成果を世に広めています。

一方、日本の大学には、老年学を学ぶ学部・学科どころか、教科書すらありません。それだけに一般の私たち日本人は、老後の人生に対する最新の研究成果を知ることができず、老年学の専門家の指導も受けることができずにいます。

したがって日本の多くの人は今だに古い老後観のまま、自分の老後を考えています。最近の老年学は、高齢者とは英知を備えた貴重な社会的資源(社会的に役立つ人材)とみなし、高齢者も社会貢献をしながら、生き甲斐のある人生を送るべきであり、そういう日々を歩むことが高齢者の成功(サクセスフル・エイジング)である、という新しい概念を提唱するようになっています。

つまり、老後は趣味を生き甲斐にするのではなく、仕事を生き甲斐にしようという考え方が、老年学の基本になってきているということです。しかし、日本では、この新しい概念で自分の老後の人生設計している人は、まだまだ少数です。ほとんどの高齢者やその予備軍である定年退職者は、社会的な貢献をするために、老後、自分はどのような仕事をなすべきかという、仕事に対する積極的な準備も認識もなく、ただ年金と退職金を当てにする社会保障制度依存の姿勢に終始しています。

かつてアメリカのスタンフォード大学が90歳を過ぎた高齢者に「自分の人生で何が悔やまれますか」という調査をしたところ、その回答の上位3項目は次の通りでした。

1. もっとリスクを負えばよかった。

2. もっと何かを学べばよかった。

3. 子供を育てる以外にももっと何かをすればよかった。

このアメリカの高齢者が抱く後悔の念は、これからの日本の高齢者にもそのまま当てはまると思います。なぜならば、日本の高齢者もだんだん後半の人生においても生き甲斐を求めるようになってきているからです。

その生き甲斐とは何かについて、哲人はそれぞれの著書に書き残していますが、最も多い答えは、「生涯を貫く自分の仕事を持つ」ということです。自分の得手とする仕事(天職)に生涯従事できれば、結果的に、その行為は世のためになるわけですから、自分にとってはもちろんのこと、社会的にも素晴らしいことです。

定年後、自分の仕事を持つことなく社会的に存在意義の乏しい生活を長く続けていると、次第に活力をなくしていきます。やはり人間はどんなに年を重ねても、自分が打ち込める仕事を持ち、社会的な責任を全うしてこそ、最も生き甲斐のある日々を享受できるというものです。このことは、あらゆる時代に当てはまる、不変の真理です。

■『 Life Shift (ライフ・シフト)100年時代の人生戦略』

『人が長く生きるようになれば、職業生活に関する考え方も変わらざるをえない。人生が短かった時代は、「教育→仕事→引退」という古い3ステージの生き方で問題なかった。しかし、寿命が延びれば、2番目の「仕事」のステージが長くなる。引退年齢が70~80歳になり、長い期間働くようになるのである。

人々は、生涯にもっと多くのステージを経験するようになるのだ。選択肢を狭めずに幅広い進路を検討する「エクスプローラー(探検者)」のステージを経験する人が出てくるだろう。自由と柔軟性を重んじて小さなビジネスを起こす「インディペンデント・プロデューサー(独立生産者)」のステージを生きる人もいるだろう。さまざまな仕事や活動に同時並行で携わる「ポートフォリオ・ワーカー」のステージを実践する人もいるかもしれない』

「生涯現役こそ最高の年金」であり、「人生は未完に終わるもよし 仕事の途中で天寿を全うする、 これが最高の人生」。

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『運がよくなる法則』

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植西聡


運が良い人というのは、不思議なくらいみんなパワフルです。
そして実際に、元気です。
彼らは、元気そうに見えるだけでなく、実際に健康です。
少しくらい睡眠時間が足りなくても、笑顔で乗り切るスタミナを持っています。

「お元気ですか?」と聞くと「ああ。忙しいけど元気だよ。健康だけが取り柄なんだ」なんて言って、いつも笑っています。

考えてみてください。
あなたの近くの上り調子の人たちは、みんな驚くくらい元気だと思いませんか?
そしてプラスの言葉を発していると思いませんか?

いつも青白い顔をしていて、いつもいつも口を開けば、
「最近、体調が悪いんだよ。病院で検査を受けてこようかなあ」
などと言っている人が、
大きな成功を手にしたなんて話、聞いたことがありません。

運の良い人たちは、心の状態がプラスになっていることで、健康状態さえも整えているのです。
そして、プラスの心がプラスのパワーを呼び込むことで、さらに健康になっていくのです。

「体力に自信がなくって」と言う人は、いつもそう言っていることで、実際に体力を失っています。
「胃が痛いことばかり起こるんだよ」と言っている人の心は、マイナスのパワーで一杯です。
そのため、実施にマイナスの力を引き寄せて、自分で胃を痛めているのです。

ツイている人を目指すなら、目標の中に、「健康であること」も付け加えましょう。
そして、「私は元気です」と口に出す習慣を始めてみましょう。
そう言い続けているうちに、本当に健康になる自分に気づくはずです。

同時に、寝る前にストレッチをしたり、朝少し早く起きて呼吸法をしてみるなど、体力作りのための行動を始めれば、あなたの健康運はますます上昇するでしょう。

ツイてる人は、自分の体調もコントロールできます。
「いつも元気です」と言って、実際に健康を保っています。
あなたも言葉を上手に使って、健康な人になってください。

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『神道感謝のこころ』

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医師、元春日大社宮司、葉室頼昭

生命というのは、個体の生命だけを指すのではありません。生物はそれぞれ、その種の生命を伝えることによって、個々の生命が伝わるという仕組みになっているからです。
人間なら、個人の生命だけでなく、国としての生命、民族の生命、企業の生命、そしてそれぞれの家の生命を伝えることによって、個々の命が伝わるというふうにできているのです。ですから、国や民族が持っている特有の伝統文化を伝えなくなると、その国は滅亡し、個人の生命もまた滅んでいくことになります。

しかし、戦争に負けてからの日本は、日本人として誇りを持つべき過去の歴史や伝統文化をすべて否定し、子供たちに伝えなくなってしまいました。これは大変なことです。
このために戦後生まれの人たちは、過去のことはすべて自分には関係ない古いことだと考え、日本の国に誇りを持たないようになってしまったのです。日本の歴史や文化を知らないために、アメリカや西欧が正しく、また優れていると考え、日本人は外国人よりも劣っていると思い込んでいる人が多いのです。

しかしこれは、日本人の生活やものの考え方が外国人とは異なっているだけのことであって、その異なっていることの中に、他国の人たちには見られない素晴らしい宇宙観、自然観そして優れた情緒が息づいているのです。そのひとつとして特に申し上げたいのが、日本人は、人間は自分で生きているのではなく、すべて神さまの恵みと祖先の恩によって生かされているという感謝の生活を送ってきたということです。

これは、人間の生きる素晴らしい真実の道です。この世の中にはいろいろな悩みや苦しみ、病気などがありますが、それらすべては、生かされているという感謝の気持ちを忘れ、自分で生きているという「我」の心が原因で現れてきます。いろいろな悩みが現れるのは、神さまからいただいた清浄で健康な素晴らしい姿を覆って包んでしまう罪(包み)や、私たちを生かしてくださる神さまの尊い気を枯らしてしまうような穢(けが)れ(気枯れ)が身についたためだということを、昔の日本人は直感で知っていました。
ですから、これらの罪穢れを祓(はら)い除けば、もとの健康で幸せな姿が現れるとして、古来より祓いということを行ってきたのです。

これは、世界に誇るべきことであると私は思います。今の医学では、病気は存在するものであり、それを撲滅するのが治療だと思われています。しかし私は、この日本人の「罪穢れを祓えばもとの健康が現れる」という考え方のほうが真実の医学ではないかと思うのです。

その他にも、素晴らしい特質を挙げていくときりがありません。日本人は古来より素晴らしい真実の生活を続けてきた世界でも珍しい民族でありますから、これらをひとりでも多くの人が自覚し、日本人の誇りをもって、胸を張って生きてほしいと願っているのです。

神道には年に2度、大祓(おおはらえ)という神事があります。ひとつは6月30日に行われる「夏越大祓(なごしのおおはらえ)」。もうひとつが12月31日に行われる「師走大祓(しわすのおおはらえ)」。夏越大祓は、1月から6月までの半年間の罪穢れを祓い清め、茅(ち)の輪という茅(かや)で作った大きな輪をくぐり、無病息災を祈る。師走大祓は、7月から12月までの半年間でたまった罪穢れを祓い清め、新年に向かって新たな気持ちで出発する。つまり、半年間にたまってしまった罪や穢れを一度リセットして、新たに1から出直すという、素晴らしいシステムです。どんな失敗をしてもそれを無かったことにして、新たに再出発するという、

起業家精神にも通じる、何度倒れても起き上がるという考え方。体に汚れや臭いがついたので、それを香水でごまかすというのではなく、風呂やシャワーを浴びて体を清める、というのが祓い清めるということ。掃除も同じで、たまってしまった不要なものをどんどん捨て、神社の境内のように、清々(すがすが)しく、すっきりとさせることが、祓い清めること。
また、健康において祓い清めるということは、体にたまった毒素や重金属などを排出することにより、本来の健康が戻り、元々持っていた自分の自己治癒力や免疫力が高まるともいわれている。

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足し算の幸福

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 曾野綾子

三浦朱門の知り合いの青年が、
高校時代にアメリカに留学していた時のことです。

高校の階段の手すりに腰を掛けて友人としゃべっていて、
バランスを崩して転落してしまった。
頭のいい青年でしたが、典型的な優等生ではなくて、少しやんちゃな若者だったらしい。
彼は、その事故で車椅子の生活を送ることになりました。

それで母親が彼を日本に帰すか、アメリカへ行って面倒を見ようとしたら、
本人は、「大丈夫。ぼくが全部一人でやりますから」と言って、
車椅子で大学を受験して入り、大学での生活もほんとうに一人で乗り切った。

すばらしい人ですね。
その青年も、ケガをした直後は当然いろいろ悩んでいた。

その時一人のカトリックの神父が、彼にこう言ったそうです。
「ないものを数えずに、あるものを数えなさい」
それは慰めでも何でもないと思います。
誰にも、必ず「ある」ものがあるのです。

でも、人間というのは皮肉なことに、自分の手にしていないものの価値だけを
理解しがちなのかもしれません。
自分が持っていないものばかりを数えあげるから、持っているものに気づかないんですね。

私は、日本で生活していてもアフリカを基準に考える癖が抜けません。

アフリカには、人間の原初的な苦悩があります。
生きられないということです。
貧乏で食料が買えないから満腹したことがない。
ここ数ヶ月、体を洗ったことがない。
雨が降ると濡れて寝ている。
動物と同じです。

病気になっても医者にかかることができず、痛みに耐えながら土間に寝ている。
そいう人たちのことを思ったら、私たちの暮らしはどれほど贅沢なことか。
世界の貧しい人たちは、1日に1食か2食、口にできれば、それでごく普通の生活です。

日本人は、グルメとか美食とか、食事がどんどん趣味的になっていますが、私など、干ばつに襲われた年のエチオピアで、もう体力のなくなってしまった男の人が地べたに座り込んだまま、まわりに生えていた草をむしって食べていたのを見て以来、どんなものを食べてもごちそうだと思っています。

日本は、山があるおかげで水にも恵まれています。
そのありがたさを普通の日本人は意識しないでしょう。
しかし、砂漠地帯に行けば、水の貴重さがよくわかります。
あらゆるオアシスは必ず特定の部族が所有していて、そこから所有者の許しもなく一杯の水でも飲めば、射殺されても仕方がない場合がある。
水は命の源だから、その管理は信じられないほど厳しいんです。

私たち日本人は、水汲みに行く必要もなく、水道の蛇口をひねれば水があふれるように出て、飲める水でお風呂に入っているし、トイレにも流している。
言ってみれば、ワインのお風呂に浸かって、ワインで水洗トイレをきれいにしているようなものです。
お湯が出るなんて、王侯貴族の生活です。

自分の努力でもなく、そういう贅沢をしていられる国にたまたま生まれさせていただいた。
その幸せを考えないではいられません。
そうすると、少しぐらいの不平や不満は吹き飛んでしまうんですね。
これが私の言う「足し算の幸福」です。

自分にないのものを数えあげるのではなく、今あるものを数えて喜ぶ。
そんなふうにスタートラインを低いところにおけば、不満の持ちようがないと思うのですが。

今の日本は、みんなの意識が「引き算型」なんですね。
水も電気も医療もすべて与えられて当然、と思っているからありがたみがまったくない。
常に百点満点を基準にするから、わずかでも手に入らないとマイナスに感じて、どんどん「引き算の不幸」が深くなっていく。


小林正観さんは、今この瞬間に、一瞬にして幸せになる方法があるという。
それは、「今、幸せだ」と感じること。

小林正観さんは、 「幸せという状態」があるのではなく「幸せを感じる自分」がいるだけだという。

お風呂にゆっくり入って、手足を伸ばしたとき「ああ、しあわせ」としみじみ感じたら、それが幸せな状態。
炎天下でのどがカラカラのとき、冷たい水をゴクゴク飲んで、「ああ、しあわせ」と感じたら、それが幸せな状態。

つまり、「ないものを数えずに、あるものを数える」ということ。

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『勝手にへこまない』

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植西聡

《もっとも愚かな人間とは、他人が責めていないのに、自分勝手に自分で自分を責める人のことをいう。》…19世紀のドイツの考古学者、ハインリッヒ・シュリーマン
トロイア遺跡の発掘で有名なシュリーマンの言葉の意味は、分かり易くいうと、「他人が何の指摘も注意もしていないにもかかわらず、何かを成し遂げても、マイナスの側面ばかり見つめる人がいる。そんなふうに心をへこますことほどバカらしいことはない」ということです。

最近の心理学に「白黒思考」という用語があります。何かをやった時、1パーセントでもうまくいかないと「すべてがダメ」と自己評価を下してしまう思考法です。苦労して書類を作成し、内容も文章もほぼ完璧なのに、一箇所だけ誤字や脱字があるだけで、「この書類はダメだ。提出できない」と考え、破り捨ててしまう人がいたりします。これなどは白黒思考の典型です。
世の中に完璧な人などいませんし、ミスは誰にもつきものです。にもかかわらず、「パーフェクトにこなそう」と考えていては、気も休まらないでしょうし、ストレスもたまってしまいます。したがって、何事もミスが判明したら、「まあ、これくらいならいいか」くらいの気持ちでいることが大切になってきます。あるいは客観的に自己採点し、「70~80点が取れれば十分。今の自分にとって、これがベスト」と言い聞かせるようにするのもいいでしょう。

このように自分を必要以上に追い込まないようにすることも、へこまない生き方につながっていくのです。
よく自分の顔や体型を気にする人がいる。しかし、自分が思うほど他人は気にしていない。容貌や、体型だけでなく、失言や、失敗したこと、恥ずかしかったことなど、ほとんどの人はすぐに忘れてしまう。言われてはじめて、「そういえば、そんなことあったね」と言う程度だ。

「白黒思考」とは、物事を「白か黒か」「良いか、悪いか」「成功か失敗か」「裏か表か」という二者択一で考える思考法。
それに対し、「両忘(りょうぼう)」という禅の言葉がある。白か黒か、善か悪か、正しいか間違っているか、という二者の対立を両方とも忘れてしまえ、ということ。「どちらだっていいじゃないか」と、こだわりや執着を捨てること。究極は、誰が正しいとか間違っているなんてどっちでもいい、なぜなら、「生きているだけでありがたい」のだから。

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中小企業の矜持

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「とがった技術を持つが後継者不足などで廃業の危機にある中小に出資し、互いの技術力を融和し再生する」ことでグループ12社を束ね売上66億円を計上」した会社がある。

2025年には6割以上の中小企業の代表が70歳以上で、うち後継者が明確に決まっていない会社が現段階でも127万社あると経産省は試算している。ここにフォーカスしたのが上記会社。

せっかくの技術を埋もれさせない、雇用を守るという観点で素晴らしい取組みだ。また、中小企業にとっても今後生き残っていくにおいて、力を付けていく、差別化を図っていくという観点から自社だけでない他者の知見を取り入れることは企業の価値を上げていくことに繋がる。

大手企業の合従連衡、統合、合併が起こっている中で、中小企業だから関係ないと静観していると急に梯子を外されることになるかもしれない。そうならないよう周囲の情報にアンテナを鋭くして情報を集めないといけない時代だ。今はそういう想像力や先読みを問われる難しい時代の端境期で、経営者の舵取りの能力が試される難しい時代です。

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人生は、好奇心に始まって好奇心に終わる

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精神科医、斎藤茂太

モーツァルトは、35歳という若さで亡くなりましたが、ベートーヴェンなどの、他のどんな作曲家よりも、熱烈なモーツァルト・ファンが、圧倒的に多いのはよく知られたことであります。私も、モーツァルト解説本の「推薦文」を書いたことがありますので、どうしてこんなにモーツァルトの曲は多くの人を魅了し続けるのか、私なりにわかってはいるつもりです。
そんなモーツァルトを、50代の私の友人は、いみじくもこう言ったのです。「クラシック音楽は、モーツァルトに始まってモーツァルトに終わる」と。そう言えば、「釣りは、フナに始まってフナに終わる」という言葉もありました。「釣りバカ」には常識の名言だそうです。そこで、これらのふたつの言葉になぞらえて、私は次のように言いたいと思います。「人生は、好奇心に始まって好奇心に終わる」と。

人生を面白くするか、つまらなくしてしまうか、それは、時代のせいでも国のせいでも、また他人のせいでもありません。自分の心の持ち方ひとつで、どちらにも変わってしまうということです。ですから、自分の不幸を誰かのせいにしたがる人は、生涯、心から納得できる幸せは得られない。生涯にわたって幸せを感じる心の持ち方とは何か、を考えてみたとき、私の心に浮かぶ言葉は、やはり「好奇心」の一語です。

好奇心をひとつのキッカケにして、何でもプラス方向に、目を向けることを教えてくれた最初の人は、母・輝子でした。父・茂吉もまた、同じく、超のつくくらいの好奇心の持ち主でしたから、こと好奇心にかけては、私は生まれながらにして、恵まれていた。
「好奇心のかたまり」という、人間としての品格を感じさせない言葉もありますが、それは好奇心そのものにあるのではなく、その人間の問題です。私が、あえて好奇心とモーツァルトを同じ舞台に乗せたのは、極めたい最高の対象として、同列に考えてみたいと思ったからです。

■城山三郎
「大病にせよ、大失敗にせよ、人生のすべてを観察というか、好奇心の対象として眺めるゆとりを持つ限り、人は必ず再起できるものなのだ」
何か大きな問題が自分に降りかかってきたとき、自分を客観視できる人は、その問題に押し潰されることなく、いつか必ずそれを解決できる。反対に、それを主観的にしか見られない人、ひとりよがりで、独善的な見方しかできない人は、表面的で狭い視野になってしまい、問題を本質的で深い所まで掘り下げることができない。好奇心のある人は、面白がって考えることができ、柔軟で幅広い見方ができる。

■手塚治虫
「好奇心というのは道草でもあるわけです。確かに時間の無駄ですが、必ず自分の糧になる」

好奇心とは、新しいことや、知らないこと、珍しいことなどに対して、興味や関心を抱き、それをもっと知りたい、手に入れたいと思う心。

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相手を思う心は、人を動かす。

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赤根祥道

人間の行動は、心によって大きく左右される。新車を購入しようとディーラーに足を運んでも、販売員がなかなか出てこないで、散々待たされたあげく、無愛想な表情で応対されたら、購買意欲も薄らいでしまう。
逆に、それほど買う気持ちはなくても、接客してくれた人が明るく礼儀正しく、丁寧に説明してくれると、買いたい気持ちになってっくる。今すぐというわけではなくとも、買うときには是非この人からという気にさせられる。

藤堂高虎は、人は俸禄だけで動くものではないとこう教えている。
「およそ臣僕を使うに、禄のみを以てせば、人いまだ必ず深く感戴(かんたい)せず、その禄仕する者、もとよりまさに受くべきところのみ。ゆえに人を使うに必ず情を以てす。人生意気に感ず、義ここにおいてか合し、命を棄て以て恩に酬(むく)ゆ。いやしくも情を以てせずんば、すなわち禄また、いたづらに損(す)つるのみ」
さらに、高虎は、次のような興味深い言葉を残している。「妻に薄き者、おそらくは薄からざるところなし。以て恃(たの)みとなすに足らず」

人生のパートナーである妻に対して、冷たい人間というのは、本質的に冷たい人間であって頼りにはならない。社会生活においても家庭生活においても、重要なのは、相手を思う心である。心ない人間は、心ある人間によって駆逐されてしまうのである。人は金や命令によって動くのではない。相手の心に感動して動くのである。自分が孤立するような状況をつくる姿勢は今すぐ改めるべきだ。そして、人の和の中に積極的に飛び込んでいき、偽りのない心で接することを心がけるべきである。

「人生意気に感ず」とは、 唐時代の詩選集から引用された言葉。その後に続くのが、「功名(こうみょう)誰れか復た(また)論ぜん」。人は時として、相手の心意気に感動すると、金や名誉とかではなく、利害をこえて、助けてくれたり動いてくれるものだ。
感動という言葉は、感じて動くと書く。感じるから動くのであって、理屈で何時間説明されたとしても、感じなければテコでも動かない。理論や理屈は、相手の心を揺さぶることはない。なぜなら、理屈には、相手の気持ちを察したり、気持ちをくむという「情」がないからだ。
情のない人は、「冷たい人間」「心ない人間」「相手を思うことのできない人間」。

フォードの創業者のヘンリー・フォードは、「成功に秘訣があるとすれば、それは、他人の立場を理解し、自分の立場と同時に、他人の立場からも物事を見ることの出来る能力である」と言っている。

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