『奇跡を呼ぶ100万回の祈り』

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筑波大学名誉教授、村上和雄

あなたは「良くない口ぐせ」を無意識にしていないでしょうか。良くない口ぐせとは、否定的な言葉、ネガティブな言葉です。「疲れた」「面白くない」「お金がない」「時間がない」「忙しい」「つまらない」…。このような言葉を使っているようでしたら、すぐに使うのをやめるべきです。なぜなら、祈りの効果を期待する以前に、こうしたネガティブな言葉も「祈り」と同じように実現されてしまうからです。

身近な人たちを思い出してみてください。いつも「忙しい、忙しい」と言っている人は、本当に、あわただしく過ごしていませんか?「大変だ、大変だ」と言う人は、なぜかいつもトラブルに巻き込まれてばかりいませんか?「お金がない」が口ぐせの人は、同様にいつも金欠に悩まされていませんか?

日本には「言霊(ことだま)」という言葉があります。言霊とは、言葉に宿る神霊のことで、言葉の不思議な働きのことをいいます。古来から、日本人は、言葉の持つ働きを信じ、さらにはそれらを大切にしてきました。
「ありがとう」と言えば「ありがとう」と感謝したくなるような世界が現れ、「ばかやろう」と言えば「ばかやろう」と怒りたくなる世界が現れる。言葉には世界を創造する働きがある、ということを昔から日本人は感じ、それを信じて生きてきたのです。それは、まるで「言葉にも遺伝子がある」かのようです。

人間が不健康な生活や放射線などの影響で、遺伝子が傷つき、病気を引き起こすことがあるように、ネガティブな言葉もまた、それを使い続けることで、自分にマイナスの影響を与えます。どんなに一生懸命祈っていても、一方でネガティブな口ぐせを持っていたら、その口ぐせの世界も同時に「祈っている」ことになってしまうのです。

花瓶に生けた花の水の交換や手入れをするときに「キレイだね、素敵だね」と話しかけると花が長持ちする、というような話を聞いたことはないでしょうか?
ある女性のボーイフレンドは、その女性の部屋に遊びに来るたびに、その部屋にあった観葉植物に対し、「これは育てるのが大変なんだよ。すぐにダメになってしまうんだから」と言い続けていたのだそうです。ると、青々とした葉が茂っていた植物だったのに、みるみるうちに元気がなくなり、根ぐされしてしまったそうです。
実は、その観葉植物は彼女の母親が贈ってくれたもので、彼女の実家にも一緒に買った、同じ種類の鉢がありました。しかし、そちらの鉢は、イキイキ、ピンピンと元気に葉を茂らせたままだったのです。植物の手入れの方法は母親から教わっていたので、彼女は実家と同じように育てていたそうです。
唯一の違いは、ボーイフレンドがかける言葉だけでした。このボーイフレンドの「すぐにダメになってしまう」という言葉は、それを聞いていた彼女にも影響していたようで、二人の関係もダメになってしまったといいます。

こんなふうに、自分が発するネガティブな言葉によって、せっかくの祈りをだいなしにしないためにも、口ぐせはすぐにあらためることが大事です。日本の復興を願うのであれば、「先が見えない」「時間がかかることだ」「そう簡単にはできないことだ」といった発言にも意識的に注意を払いましょう。

それよりも、最初はなんの根拠もなくて構いませんから、周りの人を「なんだか、一緒にいると元気になれる」と思わせるくらい、楽天的に「どうにかなる」と、ただひたすらアホのように祈り、行動してみてください。そうやって、前向きな空気をつくりだすことで「もしかしたら」が「これならできる」という空気に変わり、結果として復興を支援することにもつながるからです。

エンジンオイル、OEMの仲間の勉強塾より

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大衆の反逆

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オルテガ

グローバリゼーションとは地球規模の自由化だ。モノ、カネ、ヒト、さらに文化の自由な交流だ。自由は時として人々を疎外し不安に陥れる。人は強固なアイデンティティーを求めて鈍化路線に走り、ナショナリズムや排外主義に突き進む。

熱狂と興奮は不安を忘れさせてくれる蜜の味だ。
トランプ「大衆は気持ちを高めてくれるものが欲しいんだ」

オルテガ「ヨーロッパでは、大衆が完全な社会的権力の座に昇ってしまった」多くの大衆社会論によれば、大衆社会は民主主義と高度産業社会の副産物として生まれた。反知性、反エリート主義に傾き、新たなイデオロギーに飛びつく軽率さが特徴だ。

ネットの普及で社会はフラット化し大衆は権力に接近しやすくなった。21世紀型大衆社会ともいえる。扇動政治を求める新たな土壌だ。時代は経済合理性だけでは解けない予測不可能な厄介な局面に入ってしまった。

エンジンオイル、OEMの仲間の勉強塾より

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アホは神の望み

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筑波大学名誉教授、村上和雄

私たちはこれまで目に見えるものに重きを置く唯物的な価値観に支配されすぎてきた。給料が上がったとか、今年の売り上げは去年より伸びたとか、成績がよくなったなど、数字であらわしたり、数量で測れるものを大事に思い、そこに価値を見いだしてきました。

返す刀で、目に見えないものは価値が低い、取るに足りないものだと片づけてきました。昼の星は目には見えません。だから、昼の空に星は存在しない。そんなふうに考えてきたのです。でも見えないだけで、昼にも星は輝いているのです。

医学の世界でも、目に見える患部だけを治療することが医学の役目だと考えられて、目に見えない患者の心は体の病気とは無関係なものとされてきました。しかし、気の持ちよう、心のありようで病気がよくなったり悪くなったりするのは動かしがたい「科学的事実」となっています。

なぜ、近代的知性というものは目に見えるものだけを信じて、目に見えないものを非科学的としてきたのか。それは、人間がかしこくなりすぎたからです。知識や情報ばかりが増えて頭でっかちになった結果、かしこく、利口にはなったが、死に思いをはせたり、命のつつしみを考えたりする生命本来の深い思考が不足してしまったのです。

ですから、唯物的な思考をする人ほど「昼に星は存在しない」という“正しくて浅い思考”しかない傾向が強い。一方、深く掘った井戸の底からは昼でも星が見えるといいますが、それが科学的に事実かどうかは別にして、ものごとをそのように深くとらえられる人の方がその思考も、その命も深いものだと私には思えます。

とくに日本人は長く、森や木や草や川や海などのすべての自然に魂や霊が宿ると考えてきました。そのため海で魚を捕るときも山で猟をするときも神に祈ったり、小さな祠(ほこら)や神社をつくって、自分たちを生かしてくれる自然や生命への畏敬や感謝の念をあらわしてきました。その自然を敬い、命を尊ぶ心と営みはとても深いものです。

しかし、近代的知性はそれを古くさく愚かな迷信だなどとバカにしてきました。そうして人知の及ばないものに対する畏敬の念や謙虚な思いを忘れたときから、私たちは目に見えないものを軽視し、目に見えるものを偏重しはじめたのです。それはかしこさや利口のはじまりだったのでしょうが、しかし節度や調和といった生命思考の視点に立ってみれば、ほんとうは人間のおごりや思い上がりという「愚かさ」の始まりだったのかもしれないのです。

『私はアホを自認していますから、科学者でありながら、目に見えないものの存在も信じていますし、「増えすぎない」「生きすぎない」という生命のつつしみも信じています。また、そのつつしみを生命に備えさせた、「何か大きなものの存在」やその意思の実在もたしかなものだと考えています。人知を超える何か大きなものの存在…それを私はサムシング・グレートと呼んでいます』

エンジンオイル、OEMの仲間の勉強塾より

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