アホは神の望み

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筑波大学名誉教授、村上和雄

私たちはこれまで目に見えるものに重きを置く唯物的な価値観に支配されすぎてきた。給料が上がったとか、今年の売り上げは去年より伸びたとか、成績がよくなったなど、数字であらわしたり、数量で測れるものを大事に思い、そこに価値を見いだしてきました。

返す刀で、目に見えないものは価値が低い、取るに足りないものだと片づけてきました。昼の星は目には見えません。だから、昼の空に星は存在しない。そんなふうに考えてきたのです。でも見えないだけで、昼にも星は輝いているのです。

医学の世界でも、目に見える患部だけを治療することが医学の役目だと考えられて、目に見えない患者の心は体の病気とは無関係なものとされてきました。しかし、気の持ちよう、心のありようで病気がよくなったり悪くなったりするのは動かしがたい「科学的事実」となっています。

なぜ、近代的知性というものは目に見えるものだけを信じて、目に見えないものを非科学的としてきたのか。それは、人間がかしこくなりすぎたからです。知識や情報ばかりが増えて頭でっかちになった結果、かしこく、利口にはなったが、死に思いをはせたり、命のつつしみを考えたりする生命本来の深い思考が不足してしまったのです。

ですから、唯物的な思考をする人ほど「昼に星は存在しない」という“正しくて浅い思考”しかない傾向が強い。一方、深く掘った井戸の底からは昼でも星が見えるといいますが、それが科学的に事実かどうかは別にして、ものごとをそのように深くとらえられる人の方がその思考も、その命も深いものだと私には思えます。

とくに日本人は長く、森や木や草や川や海などのすべての自然に魂や霊が宿ると考えてきました。そのため海で魚を捕るときも山で猟をするときも神に祈ったり、小さな祠(ほこら)や神社をつくって、自分たちを生かしてくれる自然や生命への畏敬や感謝の念をあらわしてきました。その自然を敬い、命を尊ぶ心と営みはとても深いものです。

しかし、近代的知性はそれを古くさく愚かな迷信だなどとバカにしてきました。そうして人知の及ばないものに対する畏敬の念や謙虚な思いを忘れたときから、私たちは目に見えないものを軽視し、目に見えるものを偏重しはじめたのです。それはかしこさや利口のはじまりだったのでしょうが、しかし節度や調和といった生命思考の視点に立ってみれば、ほんとうは人間のおごりや思い上がりという「愚かさ」の始まりだったのかもしれないのです。

『私はアホを自認していますから、科学者でありながら、目に見えないものの存在も信じていますし、「増えすぎない」「生きすぎない」という生命のつつしみも信じています。また、そのつつしみを生命に備えさせた、「何か大きなものの存在」やその意思の実在もたしかなものだと考えています。人知を超える何か大きなものの存在…それを私はサムシング・グレートと呼んでいます』

エンジンオイル、OEMの仲間の勉強塾より

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