『自分をもっと深く掘れ!』

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新渡戸稲造

真に偉い人は、自分の地位に応じて相当の仕事をし、悠々として余力を保っているものである。小さい仕事であれば小さいなりに仕事をするが、誰が見ても、そんな仕事をさせるには人物が大きすぎると言われるくらいの人が偉いのである。

昔、孔子が牧畜の役人になったら家畜が殖(ふ)え、小さな村の長につくとその村が平和に治まった。また、豊臣秀吉は草履(ぞうり)取りの卑しい職にあったが、決して主人に冷たい草履をはかせたことがないし、按摩(あんま)をやらせたら、本職よりも巧妙であった。

二人とも小さな仕事をやらせても完全にそれを成し遂げ、たとえ余力はあっても、自分にはものたりない仕事だなどと不平を唱えたりはしなかった。もし逆に、今の職務をはなはだ不本意に思い、おれがこの世に生まれた目的はこんなことをするためではないと自負するあまり現在の職務を怠れば、これは取りも直さず、その人が偉くないことを証明するに過ぎない。

自分の現在の義務を完全に尽くすものが一番偉いと思う。そして、自分の現在の義務は何であるかをはっきり認め得る人は、人生の義務と目的とを理解する道に進むであろう。人生の目的とは何かを理解することは、自分の生きる目的を理解することと同じである。

そして、ただ、「おれは偉い」と思っていては、自分の生涯の目的など判断できるわけがない。

自分の職業や周囲の要求する義務を、それがいかに小さくとも、いかにつまらなくとも、完全に成し遂げ、この人がいなくてはできない、この人がいなくては困る、と言われるほどにならなければ、自分の天職を全うしたものとは言えない。そうならねば、人生の目的は何であるかという問題も解決できるものではないと思う。

エンジンオイル、OEMの仲間の勉強塾より

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泥があるから、花は咲く』

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正法寺住職、青山俊董尼

大型連休に入った日、たまたまタクシーの運転手が語りかけてきました。「今家族五人、連休を利用して海外へ遊びにゆくというのを空港に送ってきましたが、金持ちに生まれた子供はかわいそうですな。いつでも行きたいところへは連れていってもらえる。ほしいものは何でも買ってもらえる。金は一生ついてまわるもの、などという中で育ってしまうと、自分の欲望にブレーキをかけるということも知らずに育ってしまいますし、行けて当たり前、買ってもらって当たり前で、喜びをいただくアンテナも立ちません。

そこへゆくと私などは十二人兄弟でしたから、親は育てるのに苦労したと思いますよ。焼き芋一つも十二人で二つか三つしか買ってもらえないじゃないですか。一つの焼き芋をみんなで分けあって一口ずつ食べたときのおいしさは忘れられません。一口の焼き芋を、こんなに喜びの中にいただけるのは、貧しい家に育ったお蔭です」

禅家の大説法を聞く思いで耳を傾けていた私は、思わずこんなおしゃべりをしました。「『百人が百人の子供を間違いなく不幸にする唯一の方法は、いつでもほしいものは買ってやる。行きたいところへは連れていってやることだ』とルソーが語っていますね。

ああしたい、こうしたい、あれがほしい、これがほしいというわがままな私を野放しにせず、しっかりと手綱さばきのできるもう一人の私を育てることこそ大切なことであり、それが親の責任でもあるのですがね」と。

道元禅師のお言葉に「遠近の前途を守りて利他の方便をいとなむ」というのがあります。その人の、あるいはその子の遠い将来のことまでも考えた上で、今どうしてやるべきかを考える、というのです。

ヨーロッパの家庭であったことです。食事の最中に子供が騒いだ。父親が厳しくたしなめて食事をさせませんでした。居あわせたE氏が、「少し厳しすぎないか」というと、父親はいいました。「今叱らなければ、子供の心が死んでしまう。一度や二度食事をとらなくても、子供の体は死にません」と。

その人の、あるいはその子の、少なくとも一生という展望の上から、今どう対処すべきかを考える、それがほんとうの愛というものであり、親切というものでありましょう。

エンジンオイル、OEMの仲間の勉強塾より

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現代医学に一言

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船瀬俊介

「イスラエル全土で病院がストをしたら、同国の死亡率が半減した。病院が再開したら元に戻った」(R・メンデルソン博士)。

人類の半分は、病院で“殺されている”と、同博士は断言しています。「現代医学の神は、死神であり、病院は、死の教会である」。さらに「現代医療で評価できるのは1割の緊急医療のみ。残りの9割の慢性病には無力。治せず、悪化させ、死なせている。

地上から9割の医療が消えれば、人類はまちがいなく健康になれる」。あまりのことに、あなたはあぜんとして声も出ないでしょう。内海聡医師は断言します。「医療の目的は『治す』のではなく『殺す』ことです」「医者は、85%の症状の原因も病名も解らないまま“治療”している」(『医学不要論』三五館)

「アメリカ人の死因第1位は『医療』つまり医者である」(ベンジャミン・フルフォード、『人殺し医療』(KKベストセラーズ)あげればキリがないほど、昨今、医療告発の本があふれています。

現代医療の最大の欠陥は、自然治癒力を否定していることです。だから、治癒力を殺し、患者を殺す。こうして“洗脳”されてきた人類は、医療信仰にとらわれています。「検査」「クスリ」「病院」「医者」の4大信仰です。

「食うな」「動くな」「寝てろ」…断食は万病を治す妙法である…ヨガの奥義に従えば、どんな病気でもたちどころに治ります。これは、2016年、大隅教授のノーベル生理学医学賞で一躍、脚光を浴びることになった、“オートファジー”が、飢餓で発動し、“体毒”が消えるからです。
3日食べなきゃ7割治る、7日食べなきゃ9割治ります。さらに病気の予防と老化予防には、1日1食がベスト。
「腹8分で医者いらず。腹6分で老いを忘れる。腹4分で仏に近づく」。「カロリー6割に制限したマウスの寿命は2倍伸びた」(米マッケイ報告)。

エンジンオイル、OEMの仲間の勉強塾より

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『道をひらく』

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松下幸之助《心配またよし》

何の心配もなく、何の憂(うれ)いもなく、何の恐れもないということになれば、この世の中はまことに安泰(あんたい)、きわめて結構なことであるが、実際はそうは問屋が卸さない。人生つねに何かの心配があり、憂いがあり、恐れがある。

しかし本当は、それらのいわば人生の脅威ともいうべきものを懸命にそしてひたすらに乗り切って、刻々と事なきを得てゆくというところに、人間としての大きな生きがいをおぼえ、人生の深い味わいを感じるということが大事なのである。

この心がまえがなければ、この世の中はまことに呪(のろ)わしく、人生はただいたずらに暗黒ということになってしまう。有事に直面しても、これを恐れてはならない。しりごみしてはならない。“心配またよし”である。

心配や憂いは新しくものを考えだす一つの転機ではないか、そう思い直して、正々堂々とこれと取り組む。力をしぼる。知恵をしぼる。するとそこから必ず、思いもかけぬ新しいものが生み出されてくるのである。新しい道がひらけてくるのである。

まことに不思議なことだが、この不思議さがあればこそ、人の世の味わいは限りもなく深いといえよう。「人生には、困難なこと、難儀なこと、苦しいこと、つらいこと、いろいろとある。そんなときに、どう考えるか、どう処置するか、それによって、その人の幸不幸、飛躍か後退かがきまるといえる。

困難を困難とせず、思いを新たに、決意をかたく歩めば、困難がかえって飛躍の土台石となるのである。要は考え方である。決意である。困っても困らないことである」「心配またよし」とは、困っても困らないことだ。これは困難に対してだけでなく、うまくいっているときや順境のときも同じ。

困難のとき、愚痴をいったり、自暴自棄(じぼうじき)になってしまうのか。逆に順境のとき、調子にのって威張ったり、謙虚さを忘れ鼻持ちならなくなってしまうのか。どちらになっても、淡々と素直に謙虚に処するだけ。

要はとらえ方しだい、見方しだい。つまり、「順境よし、困難またよし」。困っても困らない人になろう。

エンジンオイル、OEMの仲間の勉強塾より

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『強く生きたいあなたへ』

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法政大学大学院教授、坂本光司

人生は思うようにはいかないものです。就職や転職のときに、自分の志望どおりになる人は限られています。
私が大学で学部生に教えていたころには、「20社目に受けた会社にやっとの思いで入りました。だけど、自分が行きたかったのはこんな会社ではありません」といった相談をよく受けたものです。

たとえ希望の会社に入ったとしても同じことです。希望する部署に配属されるとは限りませんし、不本意な異動をされることもあります。
そんなとき、なかには、「こんなはずじゃなかった」「自分は負け組だ」などと考えてしまう人がいます。そして、気持ちを腐らせていってしまうのです。

しかし、長年生きてきてさまざまな人物と接してくると、優れた人物が必ずしも「望む仕事」に就いたわけではないことに気づかされます。むしろ、そうではない人が多い。

たとえば、伊那食品工業を育て上げた塚越寛さん。この会社は、まさに「奇跡の会社」です。「会社は社員の幸せのためにある」という塚越さんの信念に基づき、50年以上にわたってただの一度もリストラをせず、一貫して安定的に好業績を上げてきました。しかも、斜陽産業である寒天メーカーでありながら、たえざる新商品開発によって「同業者と争わない」=「敵をつくらない」という戦略を貫いてきたのです。その経営哲学を学ぶために、連日のように大企業幹部が訪れているのも頷けます。

そんな塚越さんは、その実績、識見、人格において、私がもっとも尊敬する経営者のひとりです。しかし、塚越さんの経歴を聞くと多くの方が驚きます。というのは、塚越さんの最終学歴は中学校卒だからです。高校生だった17歳のとき、当時死の病だった結核を患ったため入院を余儀なくされ、高校を中退せざるをえなかったのです。入院は3年にも及びました。青春を謳歌(おうか)する同年代の若者を横目に病室に閉じ込められる日々を、どんな思いで過ごしたことでしょうか。哲学書や経営書を読みふける毎日だったそうです。

奇蹟的に回復した塚越さんをさらなる苦難が襲います。中学校卒で3年間も病に臥せっていた塚越さんを採用してくれる会社がなかなか見つからなかったのです。さんざん悔しい思いをされたことでしょう。そして、長野県伊那地域の地場産業である製材業を営む会社に、なんとか就職できることになりました。

この会社で、塚越さんは誰よりも一生懸命に働きました。「働けるということ、今日も生きていたということが嬉しくて嬉しくて、当時、人の3倍は働きました」と振り返ります。しかも、闘病中に熟読した書籍によって得た知識をもとに進んだ言動をしていたものですから、自然と経営者の目にとまるようになります。

そして、「あいつならできるかもしれない」と、その会社の関連会社で業績悪化によって銀行管理下にあった「伊那寒天工業」の実質的な社長に抜擢されます。そのとき、塚越さんは弱冠21歳。化学書や科学書を読み込みながら生産機械に改良を加え、経理体制を整え、営業に駆け回りました。休みといえば正月くらい。それだけの努力を重ねて、一歩ずつ自らの理想とする会社を築き上げていくのです。

人生にとって大切なのは、「希望する仕事」に就くことではなく、「与えられた場所」で全力を尽くすことなのです。その結果、当初、思いもよらなかった形で自分の「理想」や「夢」が実現する。

人生とは、そういうものなのです。もちろん、人を人と思わないようなブラック企業や、どうしても自分とは合わない会社であれば話は別です。
しかし、たいていの会社はさまざまな問題を抱えながらも、常識の範囲内で運営されているものです。石の上にも3年といいます。不満に思うことがあったとしても、その仕事を通してお客様や仲間、そして自分を幸せにできる可能性があるのであれば、「雇ってくれた会社・職場」=「与えられた場所」にじっくりと腰を据えて頑張ってみることです。「目の前の仕事」に全力を尽くすことが、人生を拓(ひら)く第一歩なのです。

エンジンオイル、OEMの仲間の勉強塾より

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