極限状態を乗り切るユーモアの力

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佐藤 秀明

場の空気を変える「もの」コレクション
鉛色の空の下、気温はマイナス50度。写真家の佐藤秀明氏が
レンズで追い続けたのは、
バイクで北極点を目指す冒険家の姿だった。
過酷なまでの極限の世界、絶望感が漂い始めた
彼らの空気を一瞬で変えてしまったイヌイットの言葉とは……。

冒険家の行動を記録する仕事というのは楽しくもあり、
大変につらいことでもある。
楽しいというのは、冒険家がチャレンジする
その冒険と同じステージに立てること。
そして冒険家が求めた夢をともに体験できる喜びだ。

とはいえ、そのような嬉しい話ばかりではない。
日々つらくて死ぬような思いばかりの中で、
折れそうになる心や体力を支えてくれるのは、
いわば自分の業務に対する使命感、
それと“その冒険の中から何かを学んだ”と
感じられる手応えかもしれない。

1987年、冒険家・風間深志氏との極北の冒険旅行では、
今では考えられないほど
大きなナビを運んでいかなければならなかった。
それ以前の先輩たちは、星や太陽の角度を測りながら
自分たちのいる場所を確認する旅だったことを考えると、
かなり楽な旅には違いない。
現代では装備的にもっと楽になってきている。

そのかわり、地球温暖化や悪化する治安で
昔より厳しくなっているのかもしれない。
北極では氷の量が少なくなって
北極点に達することが難しくなったし、
紛争だらけのアフリカや中東の砂漠地帯に
出かけようという人間はいないだろう。

ということを考えると、我々の時代は冒険者にとって
良い時代だったのだ。
立ちふさがるのは厳しい自然だけ。
障害を乗り越えるために様々な工夫をこらすことも
楽しかった。
仕事を重ねていく中で、いつの間にか
野外生活のノウハウが身についてくることも喜びだった。

風間深志氏との北極点遠征が決まった時、
私は若く、心の中では新しい冒険には
やる心と居心地のいい家庭に愛着する気持ちが
せめぎ合っていた。
確かに私は動揺していた。
何しろ行く先は未知の北極なのだから。

そんな不安を背に、カナダ最北の地から
氷に覆われる北極海を眺めた時の恐怖は忘れられない。
沖から押し寄せて来た氷が盛り上がり、
数キロ沖からスキー場のゲレンデのような斜面を
形成しているのだ。
おまけに空は鉛色で気温マイナス50度。

「あんな所へ行くのかよ、勘弁してほしいよ」というのが、
その時の私の偽らざる気持ちだった。
誰かが「もう止めよう」と言ってくれないかと思ったものだ。
しかし、そんな恐怖心もスタートしてしまえば
次第に薄れて行く。未知への旅路である。

初日は2時間ほど進んでキャンプを張ることにした。
カナダ北岸からほんの数キロ進んだだけだった。
沖から押し寄せる氷が陸地に阻まれて無秩序に迫り上がり、
我々の行く手を遮っているのだ。
1時間で1キロほどの距離しか稼げないのである。

しかし、体力気力はともに充実していて、
マイナス50度の中でのキャンプは、
初めての経験だったが楽しくもあった。
2名のイヌイットガイドと隊長の風間氏、助手、
そして私の5人が寝起きできる
大きなテントの中での食後のひとときは楽しく、
その後にやってくる氷と寒さという魔物の怖さを
想像することもなく過ごしたのだから、
無知とは恐ろしい。

その後、日を重ねるにつれて寒さと疲労が体力を奪っていく。
乱氷帯につかまると一日中、氷との格闘だ。
そうやって数キロしか進めない日が続く。
次第に全員の口数が少なくなって、絶望感が漂い始めるのだ。

そんな時に限って、気温がマイナス60度にも下がったり、
強い海流で氷が動いて、次々に割れる氷から
逃げ回ったりしなければならなかった。
もうグタグタに疲れ果て、ブリザードで視界がきかず
停滞せざるを得ないときは、
一日中シュラフの中で寝て過ごしたものだ。

北極点に到達するという希望も次第に薄らぎ、
沈滞ムードが漂ってきた時のことだった。
じっと様子をうかがっていた
ガイドのデイビット・カラックは、
待ちかねていたかのように我々に向かって言った。

「なぜつらいのか、わかるかい?」

われわれは答える気力も無く、無言で彼を見つめていた。

「それはな、地球のてっぺんに向かって
坂道を上っているからだよ。い~ひっひっひ~」と言って
彼は笑った。

イヌイットは昔から、つらさをユーモアで表現する
天才であると聞いたことがある。
自殺をするときでさえ、「その前にお茶を一杯」と
お茶を飲んでから銃の引き金を引いたという
逸話があるくらい、
あまり物事を深刻に考えないとも言われている。
死に対してさえそうなのだから、
我々が死にそうな顔をして頑張ってる様子を
見ていられなかったのだろう。

それまでカチカチに固まっていた我々の気持ちが、
デイビットの一言でグッとほぐれたような、
そんな気がしたのだった。44日間、氷上の大冒険だった。

エンジンオイル、OEM仲間の経営塾より

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