『やばい老人になろう』

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さだまさし

2017年4月10日、僕は65歳になった。ほとんどの人は、死を恐れ、老いることを恐れるものだ。だが僕はむしろ、死を素直に受け入れ、どのように老いていくかを真面目に考えつづけてきた。
僕は、いったいどんな「じじぃ」として、生きるべきなのか。そう暗中模索しているうちに、ふと、周りから「ヘンなじじぃ」と呼ばれたいと思うようになった。

「フツー」ではなく、あくまでも「ヘン」がいい。自分の子供を育てるときに心掛けてきたのも「フツーはダメ」ということだった。
子供がちょっと変わったことをしたときも「すごい!ヘンでいい」と褒めてやった。「良いヘン」と「ダメなヘン」があることは教えたが、「フツーはダメ」ということだけは徹底してきた。
だから、自分もまた老人として「ヘンなじじぃ」であり「やばい老人」でありたいと思うのだ。

老いを恐れる人は、たぶん人生と真剣に向き合って生きてこなかった人だ。だから歳を取ると、後悔や不安でいっぱいになる。
だが、これまで一瞬一瞬を精一杯に生き、一所懸命に努力をしてきた人にとっては、老いることは怖いことでも悲しいことでもないはずだ。
そもそも「じじぃ」には、選ばれた人しかなれないものだ。

僕の同級生でも音楽仲間でも、「こいつがじじぃになるのが楽しみだな」と思うような奴が、思いがけなくガンで早く死んだりしている。そう思うと「じじぃ」になれるのは、ありがたいことなのだ。
僕が憧れる「じじぃ」、それも「やばい老人」の条件は三つある。

その一 「知識が豊富」
その二 「どんな痛みも共有してくれる」
その三 「何かひとつでもスゴイものを持っている」

僕の周りには、幸せなことに、そんな「じじぃ」や「ばばぁ」がたくさんいる。彼らに追いつき追い越すためには、まだまだ僕自身の経験値も実績も足りない。どうしたら「ヘン」で「やばい」と言われる「じじぃ」になれるか。毎日が挑戦の日々である。

『もともと、誰も掘っていない畑を耕してみたくなるのは、どうしようもない僕の性分だ。負けず嫌いのお調子者のことを、長崎弁で「のぼせもん」という。
遊びでも祭りでも、やたら仕切りたがるおじさんのことを、古い言い方で「おっちゃま」と呼ぶ。僕はまさに「のぼせもんのおっちゃま」なのである。
できることなら、陽気で元気で一徹な「じじぃ」をめざしたい。友人とワイワイ仕事をし、めいっぱい遊んで呑んで、若い仲間を巻き込みながら、友情の大きな輪を広げていく。そもそも、日本の年寄とは、そういう存在だった』

エンジンオイル、OEM仲間の経営塾より

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