東大病院救急部長が語る「死後の世界」

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東京大学医学部附属病院救急部・集中治療部部長、東京大学大学院医学系研究科・医学部救急医学分野教授矢作直樹医師(当時57歳)。

最先端の医療現場で起きる不可解な現象を幾多も経験する中で「死」についての考察を重ね、独自の死生観を主題とした著作を発表し続けている。

〇最新医学でも説明できない私が勤務する東大病院では、年間3000人もの患者が集中治療室で治療を受けています。そこは生と死が隣り合わせの場所であり、私も臨床医として、多くの「死」に立ち会ってきました。現代医療には「エビデンス・ベースド・メディスン(EBM)」、つまり「証拠に基づく医療」という考え方がベースです。私たち医師もEBMを踏まえて患者さんの治療に当たるのですが、実は救急外来の現場では患者さんの疾患や障害の原因がどうしても解明できない、ということがしばしば起こります。現役の医師である私が言うのもおかしいかもしれませんが、これだけテクノロジーが発達した時代でも、医療の現場は最新の医学や科学をもってしても、まったく説明のつかない事象に満ちています。
例えば、ある時50代の女性患者が呼吸困難を訴えて来院されました。軽い肺気腫があるだけで、近所の医者から「初期の肺炎」と診断されて入院されたのです。症状はごく軽いものと思われたのですが、入院直後から体調が劇的に悪化して髄膜炎を発症し、私たち担当医も為す術がないまま、わずか1日半後に息を引き取ってしまいました。これといった基礎疾患のない人が、どうしてこんなにあっけなく逝ってしまうのか。残念ながら現代の医学の観点からはまったく分かりませんでした。かと思えば、症状が重く、これはとても助からないと思われた患者が奇跡的に回復したりすることもあります。東大病院でも、年1~2回はそうした事例が起きています。心肺停止状態で脳機能に障害が出ているはずなのに、その後、ちゃんと回復し、脳のダメージもまったく残らなかったというケースもありました。

どうしてそうなったのかは、誰にも説明できません。分からないことと言えば、「身体がこんなひどい状態なのに、なぜ生きていられたのか」と首をかしげざるを得ない遺体を、私は少なからず目にしてきました。それは、遺体を病理解剖する際、身体を開いてみて初めて分かることなのです。ほんの少し前まで命があったなんてとても信じられないほど、臓器をはじめ、どこもかしこもボロボロに傷んでいたりする。医学的に見て助かりそうな人が突然亡くなり、死にそうな人が奇跡的に回復し、肉体的には死んでいるはずなのに何日も生き続けている人がいる……。
こうした事例を数多く見るにつけ、私は次第に、人間の生死には我々の理解を超えた「何か」が働いているのではないかと考えざるを得なくなったのです。

〇臨死体験をした人々その結果、私は「寿命が来れば肉体は朽ち果てるが、霊魂は生き続ける。その意味で、人は死なない」という考えに至りました。つまり、人間というのは肉体とエネルギー体、いわゆる「霊魂」に分かれているとしか思えなくなった。このことをふまえて考えれば、不可思議な遺体も理解ができます。本来ならとうに亡くなっていてもおかしくない遺体に、私は「もうこの人は、肉体の中にいなかったのだ」と、理屈抜きに直感で感じることがありました。それはつまり、死を目前にして霊魂が肉体から離れつつあったということではないでしょうか。人が住まなくなった家はすぐに傷みます。それと同様に、人の肉体は魂を宿すための「器」であり「入れ物」だから、魂が抜けかけた体はどんどんボロボロになってしまうと理解したのです。

一体、人の生死とは何なのでしょうか。私はこれまで入院中の患者から臨死体験(本人は臨死体験と認識していない場合もある)を告白されたことが何度かあります。また、臨死体験をした人の話を詳しく聞いたこともあります。それを聞いた時、まさに人には霊魂が存在するという私の考えの裏付けになるものだと確信しました。
50代男性のAさんは、今から28年前、妹を乗せた車で事故を起こし、その直後に臨死体験をしました。ふと気がつくとAさんは妹と2人、大破した自分の車を空中から見下ろしていたと言います。すると隣にいた妹が突然、「お兄ちゃんは戻りなよ」と言い、その言葉を聞いた瞬間、Aさんは車の運転席に横たわったままの状態で目が覚めたそうです。「戻りなよ」と言った妹は即死状態でした。現場検証した警察官からAさんが聞いた現場状況は、臨死体験中に見た光景そのままだったそうです。また、私は知人の医師から興味深い話を聞いたことがあります。

彼は担当する患者から夢で別れを告げられることがあると言うのです。それも、一度や二度ではなく、数年の間に何度もそうした夢を見たと言う。こうした夢は正夢だったということが多く、その場合、患者が彼に別れを告げた時間と、病院で息を引き取った時間がほぼ一致していたそうです。別に彼に限ったことではなく、担当していた患者が夢枕に立ってお別れを言われたという経験をした医療関係者は、他にも何人もいます。これは一般的に「予知夢」と呼ばれるものですが、私はこうした現象は、霊魂が生きている人の意識と繋がることができる、という事実を示していると思います。
つまり、人は亡くなると肉体という枷が外れ、霊魂は自由になり、他者の意識にも共鳴できるようになるのではないでしょうか。

〇死の間際、人は何を見るのかこのような臨死体験については、「単なる脳内現象に過ぎない」と否定する向きもあるようですが、実は臨死体験の中には「臨死共有体験」というものが幾つも報告されています。ある方が亡くなりかけていて、ご家族が臨終を看取ろうと周りに集まっている。その時、患者が見ている「あの世からのお迎えの光景」を家族の人たちも同時に見てしまうというものです。これは、西洋では既に認知されている現象です。科学的検証こそできていませんが、患者本人ではない第三者までもが同じ体験をするのですから、「脳内現象」というよりは、意識(霊魂)の同調を起こしていると考えるのが自然です。人間には霊魂がある、と言うと理解できない人がいることは百も承知です。しかし、これは過去に多くの患者を看取ってきた私の偽らざる実感なのです。
また、霊感が強い人は、死ぬ直前の人間の体から何かが抜け出していく、言い換えれば「見えない体」が肉体から出ていくのが分かると言います。患者の臨終に何度も立ち会った私も、それは分かるような気がします。言葉ではなかなか説明しにくいのですが、いわば肉体から何かが「外れかけている」感覚があるのです。早い方だと、亡くなる3日ぐらい前から少しずつ外れていき、遅い患者さんでも臨終の直前に外れるそうです。私はそれを、いわゆるあの世からの「お迎え」が来たのだと捉えています。
また、こうした「お迎え現象」の一つに、患者の顔の変化があります。死の数日前になると多くの末期患者の顔が、なぜかほころぶことがあります。2~3日前から亡くなる直前の間、患者は周囲のことにすっかり無関心になり、いよいよ最期の時を迎える瞬間、まるで別の世界にいるような感じで、顔がほころぶのです。よく観察すると、その表情は「えっ」と何かに軽く驚いているようにも見受けられます。残念ながら患者の全員が亡くなってしまうので、彼らがなぜ顔をほころばせ、何に対して驚いたのかは確認できません。
でも、私にはあの世から来た「お迎え」に患者たちが反応しているように思えてならないのです。私の考えをバカバカしいと全否定する人もいるでしょう。しかし、現在、我々人間が解明できている「世界」はごく一部でしかありません。この世界には我々の理解を超えた現象はいくらでもある。言ってみれば、人間は巨大なゾウの体の上を這い回っているアリに過ぎません。アリがいくらゾウの体を探検したり、研究をしたところで、結局、それはミクロな発見でしかありません。マクロなゾウの全体像は、アリの能力では決してつかみきれない。それと同じことなんです。

では、「死」によって肉体から解き放たれた霊魂はどこへ行くのでしょうか。私は、霊魂が向かう先は我々とは別の次元の意識世界、いわゆる「あの世」であると考えています。死後の世界として、古来から天国や地獄などの概念がありますが、私が考えるところ、「あの世」は決して悪いところではなさそうです。なぜなら、臨死体験をして死後の世界を垣間見てきた人は、その後死を恐れなくなるようなのです。臨死状態に陥った人は、その間、安らぎや解放感を覚えたり、強烈な光を感じたりするようですが、いずれも不快な現象ではありません。そのため、「死は、ただただ恐ろしいものではないのかも」という安心感が芽生えるのです。しかも、「あの世」に行った霊魂は「現世」と完全に断絶してしまうわけでもありません。
これは私事になりますが、私はかつて亡くなった母の霊と会話する貴重な体験をしています。私の母は’07年、独居先のアパートで亡くなったのですが、その2年後、強い霊能力を持つ知人女性のBさんから「お母様があなたと話したがっている」という連絡をもらい、迷った末にBさんを霊媒として、母と交信を試みたのです。結果からいうと、母との交信は圧倒的な体験でした。様々な会話を交わしながら、私は確かに目の前に母がいるのだと感じざるを得ませんでした。以来、私はあの世は決して遠い場所ではないのだと感じるようになりました。

〇魂は永遠に生き続けるでは「現世」と「死後の世界」はどのような関係にあるのでしょうか。私なりの考えでいうと、我々の生きている世界はいわば競技場のようなものです。私たちはこの競技場の中で、人生という苦しい競技に参加し、お互い競い合っているわけです。その中で、「あの世」はいわば競技場の観客席です。観客席と競技場の間にはマジックミラーがあって、こちらから向こうは見えないが、向こうから私たちの様子を見ることはできる。やがて競技が終わると、つまり肉体的に死ぬと、私たちは霊魂となって観客席へと移るのです。そして、もう少し競技をしたいと思う人は、競技場の中に戻るように、再びこの世に生まれ変わることができるのだと考えています。
間もなく、東日本大震災から2年が経ちます。私は、日本人の死生観は3・11を境に大きく変わったと感じています。災害が起こる前まで、私たちは「人は必ず死ぬ」という真理を忘れていました。しかし、3・11以降、多くの日本人が、それまで縁遠かった「死」を、明日にでも自分を襲うかもしれない身近なものとして意識するようになりました。しかし、死を身近に感じることは、とりもなおさず生を身近に感じることでもあります。だからこそ、私は日本人は肉体だけでなく、魂についてもう一度思いを馳せてほしいと思うのです。

「人は必ず死ぬ」という死生観は、言い換えるなら、人は一回きりの人生しか生きられないということです。でも、それではあまりに自分の人生は理不尽だと思う人は沢山いるのではないでしょうか。
そこで、「人には霊魂がある」という考え方を受け入れたらどうでしょう。「人は必ず死ぬのは確かだけれど、人間にとって死は終わりではなく、魂は永遠に生き続ける」この考え方は、現代人にとって大きな救いとなるのではないでしょうか。また、「魂は死なない」というイメージがインプットされれば、この世では自分は理不尽な人生を送っていたけれど、悠久の生の中でみれば、そうした理不尽な意識を解消することもできる、という視点に立つことができます。そうすれば、死を無意味に恐れることもなくなるでしょう。
繰り返しますが、私は長いこと救急医療の現場にいて、様々な死を目の当たりにし、嘆き悲しむご遺族の姿を見てきました。しかし、死後も霊魂は消滅しないという考え方に立てば、亡くなった人はなんらかの自分の役割を終え、あの世で幸せに暮らしており、中には次の転生に備えている人もいることになる。この考え方に立った方が、遺族を含め、多くの人がより幸せになるのではないでしょうか。日本人は古来より、霊的感覚に鋭敏な民族と言われてきました。このような時代だからこそ、私たちは魂の大切さについて理解を深めるべきです。そうなってこそ、我々は本当の意味で、心の豊かさを掴むことができるのではないでしょうか。 「週刊現代」2013年3月16日号より

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