『103歳になってわかったこと』

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美術家、篠田桃紅

人は、用だけを済ませて生きていくと、真実を見落としてしまう。「真実は皮膜の間にある」近松門左衛門真実は求めているところにはない。しかし、どこかにある。雑談や衝動買いなど、無駄なことを無駄だと思わない方がいい。無駄にこそ、次の何かが兆(きざ)している。用を足しているときは、目的を遂行することに気をとられているから、兆しには気がつかない。

無駄はとても大事。無駄が多くならなければ、だめだ。お金にしても、要るものだけを買っているのでは、お金は生きてこない。安いから買っておこうというのとも違う。無駄遣いというのは、値段が高い安いということではなく、なんとなく買ってしまう行為だ。なんでこんなものを買ってしまったのだろうと、ふと、あとで思ってしまうことだ。

しかし、無駄はあとで生きてくることがある。時間でもお金でも、用だけをきっちり済ませる人生は、1+1=2の人生だ。無駄のある人生は、1+1を10にも20にもすることがでる。私の日々も、無駄の中にうずもれているようなもの。毎日、毎日、紙を無駄にして描いている。時間も無駄にしている。しかし、それは無駄ではないかもしれない。最初から完成形の絵なんて描くことはできない、どの時間が無駄で、どの時間が無駄ではなかったのか、分けることはできない。なにも意識せず無為にしていた時間が、生きているのかもしれない。つまらないものを買ってしまった。ああ無駄遣いをしてしまった。そういうときは、私は後悔しないようにしている。

無駄はよくなる、これは必然だと思っている。もし仮に、無駄のまったくない人生を生きてきた人がいたとしたらどうだろう。やることなすこと、すべてうまくいき、日の当たる場所や、近道だけを選び、効率的で全く無駄のなかった人生。もしいたとすれば、とてもつまらない人間がそこに存在していることになる。

人は、寄り道をしたり、道草をくったり、どん底を味わったり、失敗や嫌な目に遭う。人生の無駄を経験するからこそ、人としての味や深みが出る。「人生の余白」ともいうべき、人としての遊びや余韻の魅力だ。「無用の用」という老子の言葉がある。一見すると役に立たないようなことが、実は大きな役割を果たしているということ。無駄のある人生も、時にいいものだ。

エンジンオイル、OEM仲間の経営塾より

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