『人生はあきらめるとうまくいく』

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ひろさちや

私はいつも財布にサイコロを入れて持ち歩いています。何かに迷ったら、奇数か偶数かで決めます。天丼かうな丼かどちらにしようか…。そもそも迷うというのは、どちらでもいいから迷うのです。うなぎが嫌いなら、迷ったりしません。そいういうときには、デタラメに決めるにかぎります。デタラメというと、誤解を招きそうですが、これは「出たら目」。出た目に従う。出したのはほとけ様なのだから、ほとけ様に決めてもらう、ということです。 

大学の先生をやっていたとき、ときどき学生が相談に来ました。「この大学やめようと思っているんです。来年東大を受けようかと…」。毎年5月くらいになると、相談者は増えます。「君、大学やめてもいいの?」「やめてもいいんです」「この大学にのこってもいいの?」「はい、のこってもいいんです」とこんな調子です。「四分六ぐらい?どちらの分が多いの?」「いえ、五分五分です」私はサイコロをとりだして、学生に渡します。「振ってごらん。奇数が出たらやめる、偶数が出たら残る」すると学生はあわてます。「先生、ふざけないでください。僕はまじめに相談に来たんですよ」「私もまじめに答えているんだよ。あなたの人生にどっちがよかったかなんて、絶対にわからない」と言い返す。

人間には、未来を決める権利などありません。よかったという判断もつかない。大学受験に合格してよかったと言うけれど、同級生と相性が悪くていじめられて自殺する青年もいます。一年浪人して恋人に出会う可能性もある。現役で入ったら、実力がなくて、中退するかもしれない。一年間地力をたくわてから入った方がいいこともある。どちらがいいかなんてわかりません。私たちには未来はわからないのです。キリスト教でもイスラム教でも、未来について知っているのは神だけです。

キリスト教ではこう言います。「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけでじゅうぶんである」
イスラム教ではこう言います。「もし神がお望みならば…」これは「イン・シャー・アッラー」という言葉で、自分たちが未来を語るときには必ずこれを付け足すのです。「私は明日これこれのことをすると言ってはならない、ただしイン・シャー・アッラーとつければよい」だからイスラム圏の飛行機に乗ると、イン・シャー・アッラー」と言ったあとで「この飛行機はあと十五分で成田空港に到着します」とアナウンスが流れます。つまり、神様が望むならこの飛行機は到着します。もしもダメだったら墜落するかもしれません、ということです。

自分の未来を決める権利は、神様にしかありません。私たちは権利放棄でいいのです。これが宗教の教えです。学生にもこの話をして、どちらがいいかなどわからない、ほとけ様、あるいは神様、それとも宇宙意志にお任せして、デタラメに決めたらいいと言うのです。にもかかわらず、彼らは「先生のアドバイスが欲しい」と言う。
「今はしおらしくそんなことを言っているけども、あとになって何かつまずいたときには、必ず私を恨むようになる。先生にあんなこと言われたから、俺はこうなったんだって」私はそんな相談には乗りたくありません。
あなたが自分で決めるほかない。でも、自分で決められないから悩んでしまう。だから、サイコロで決めなさいと言うのです。でも、二十人相談に来て、サイコロを振ったのは二人くらいです。

エンジンオイル、OEMの仲間の経営塾より

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