ニセモノの安心を得ている人たちへ」 所有欲に縛られると、やりたいことができない

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堀江貴文

○僕にはほとんど所有欲がない。車に家、高級スーツに時計、貴金属、有名なアート、トロフィーワイフ……多くのいわゆる金持ちが求めている、「自分の成功を象徴する」ような実体物を、ひとつも持ちたくない。 唯一と言える所有欲は、スマホぐらいだ。仕事や遊びに、いまのところ最も役立つからだ。けれど、もしスマホ以上に、僕のいまの暮らしを最適化させてくれるツールが出現したら、スマホも秒で捨ててしまうだろう。

スペースを取られるものを、なぜ欲しがるのだろう。持つことによる喜びや安心は、果たして本物なのか? 持っているものが、いつまでもそこにある保証は、誰がしてくれるのか? 所有するという欲望の根本的な理由は、何なのか? まるで、哲学問答だ。所有欲は、状況によれば行動のモチベーションにもなるだろう。でも所有欲が、人を幸せにすることはない。あるとしても一瞬だ。僕もかつて、所有欲にとらわれていた時代を過ごした。家も車も、ブランド品もワインも腕時計も、買いまくった。でも、その欲はすぐに満たされた。所有しなくても自分を豊かにしてくれるいろんなものを見つけて、いまはもっと楽しく暮らしている。

いままで持っていなかったものを努力して持てたとき、その瞬間は満たされる。しかし、勘違いしてはいけない。それは「獲得」の喜びであって、「所有」とは違うものだ。この2つは似て非なるもの。混同してはいけない。獲得は、考え方によっては報酬となる。ノルマ達成や借金返済、投資回収などビジネスにおいての積み上げは、大事な獲得の作業と言えるだろう。しかし所有は、報酬ではない。所有はリスクとなる。喪失の不安、管理の手間、執着心と、ネガティブな感情を抱えることになる。

本棚に飾っておいたり、クローゼットにしまっておける程度の大きさのものならいいけれど、持ち運びに難儀したり、持っているだけで出費を強要されたり、何らかの制限が付随してくるようなものは、存在自体がリスクでしかない。いったん所有欲に縛られると、「あれが欲しい」「これも手に入れたい」と所有物のために働くようになり、自分のやりたいことに集中できなくなる。所有物が価値を判断する基準となるので、自分が持っていないものを持つ人をねたんだり、ものを失うことを恐れたりと、心は休まらなくなる。いま大事にしているもので、少しでも重さが気になれば、思いきって捨てよう! そうすれば、新たな行動の意欲を得られる。

○モノも愛着心も、とっとと捨てろ
捨てられない、それでもいいと思う。「捨てる」のが上手い人と、「捨てる」のが下手な人。どちらの属性の人も共存しているのが、普通の社会だ。
雑多なものが片づけられないまま、散らかっている。多様性の視点では、豊かな状態だ。何かのエネルギーを生み出す、きっかけとなるかもしれない。
ただそれは広い話で、個人でみるなら、不要物は「捨てる」の一択に尽きる。「捨てられない」という人は、ゲノムとミームの関係で考えよう。ゲノムとは遺伝情報の総体であり、ミームとは人から人へと拡がっていくアイディアや行動、スタイルや慣習のことだ。人生においては、言うまでもなく、ゲノムよりミームのほうが大事だ。遺伝情報そのものを記録した物体を保つより、「意志」や「精神」「心に描いている実現したい自分自身」が、拡散・継承されていくほうが、自分の生きてきた証になる。
つまり自分自身のコピーを、よく多く残すことが、人生の質を上げるのだ。僕は、僕と同じ思考と行動のできるコピーがいっぱいいて僕と意志を同じくする仲間が増えていくと素晴らしいと思う。僕個人の快感や興奮は、実はあまり重要ではない。
堀江貴文的な概念が、多くの若者たちへ、拡散・継承されていくことを願い、多くのビジネスを進めている。概念を受け取ったチルドレンたちが、堀江貴文的なものを進化させて僕の想像を叶え、さらに凌駕する未来を創造してくれれば、何よりうれしい。
ゲノムはランダムの要素が多い。だから継承には適さない。概念を記録したデータ、すなわちミームを残していくことに、僕は力を注いでいたい。選び取るべきは“実在よりも概念”なのだ。それ以外のモノは、いらないのだ。

○欲しいモノを明確にすれば「何だって捨てられる」モノにこだわったり、捨てられないのは、欲しいモノが明確ではないからだ。
大して欲しくもないモノに囲まれていることで、欲しいモノをわかっていない自分の不充足感から、逃げている。モノをたくさん持ち、偽物の安心を得ていると言える。
欲しいモノがはっきりしていれば、何だって捨てられる。チャック・パラニュークの小説『ファイト・クラブ』の一節に、こう書いてある。
「欲しいものがわからないと、本当には欲しくないものに包囲されて暮らすことになる」「すべてを失ったとき初めて、自由が手に入る」
僕はかつて、ライブドア事件ですべてを失った。だからこの一節の真実味が、痛いほどわかる。すべてを失った瞬間はつらい。しかし、モノでは満たせなかった自由を、力いっぱい抱き締めることができた。それは真実だ。
僕は、モノの呪縛を解いて、動き続ける。安定じゃなく、刺激あふれる世界にいたいからだ。古い常識に、とらわれたくない。立ち止まりたくないのだ。迷わず「捨てる」生き方は、決して難しくない。何が欲しいのか? 明確にできれば、自分という概念を、どこまでも遠くへ飛ばせるのだ。

エンジンオイル、OEMの仲間の勉強塾より

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