元ノートルダム清心学園理事長、渡辺和子

年寄の子は、えてして心配性と言われますが、

私が女学生の頃、すでに六十歳を超えていた母が、

雨の降りそうにない日にも、よく傘を持たせてくれたものです。

乗り物に乗る時には十分な時間的余裕を持って出かけ、

降りる時には一つ手前の駅から準備しはじめるように。

横断歩道を渡る時、青だったら一度赤に変わるのを待って、

次の青で渡りなさい。

そうすれば途中で赤になることはないから。

一事が万事、このようでした。

このように育てられたためかどうか、

自分でも心配性だと思うことがあります。

信仰が薄いのでしょう。

聖書の中に「思い煩うな」と書いてあることも知っています。

野の百合(ゆり)、空の鳥を養い給い、

私たちの髪の毛一本にまで心を注いでくださる

父なる神がましますことも分かっています。

しかしながら、昔から私には、うんと心配したり、

最悪の事態を想定すると、

その心配が来なかったり軽くて済む、という

迷信めいた思いがあります。

それは多分、たくさん心配しておけば、

実際に来た時にも「思った通り」と諦められるし、

来なかったら、または思ったほどでもなかったら

「もうけもの」をしたような気になるからかもしれません。

信仰が薄いと叱られそうですけれども、

キリスト様にしてみれば、そのような心配性の人間が、

迷いに迷ったあげくの果てに

「おまかせします」と申し上げた時の方が、

全然心配しようともしない人が事も無げに

「お願いします」と言った時よりも、

「よし引き受けた。心配するな」

おっしゃり甲斐(がい)があるのではなかろうかなどと、

勝手に自分を慰めています。

キリストは、とても人間的な心を持っていてくださいます。

頼られてうれしいのは人の常です。

問題は、どのあたりで心配をやめて、おまかせするかであり、

また、おまかせした結果については、

「とやかく申しません」という一札(いっさつ)を

きちんと入れる覚悟を持つということです。

「どうしてこんなヘマをなさったのだろう。

私でも、もうちょっとスマートに片付けるのに」と

神のなさることに思う時があります。

ところが後になってみると

「すべては、その時に適(かな)って美しい」のです。

天が下のすべてのみわざには神の時があり、

「人は神のなされるわざを、初めから終わりまで

見極めることはできない」のです。

だからこそ、安心して心配していいのであり、

思い煩いながら、今日もおまかせして生きていられるのだと

思うのですが、これは矛盾した考え方なのでしょうか。

エンジンオイル、メーカー、OEM仲間の経営塾より