イェール大学、シェリー・ケーガン教授
やみくもに死を恐れることなく、前向きに生きよう。
考えてほしい。永遠というのは、とても、とても長い時間なのだ。
永遠というのは、永遠に続く。
こういう生き方なら永遠にそれだけを続けたいというものを、
みなさんは描き出せるだろうか?
最高の人生には、経験(「内面的な」良いこと)だけではなく、
「外面的な」良いことも欠かせないのだ。
「とても重要なので、それをやるためなら、死の危険を冒す気になる」
というものがあるとすれば、それは何か?
私たちは、2つの注意をしなければならない。
目標を選ぶときに注意し、その目標を実現するときも
注意しなければいけない。
人生は良いもので、そのため人生の喪失は悪いことであり、
生きているうちにできる限り人生を有効に過ごすのがベストだ。
これは、おおざっぱに言えば西洋的な見解だ
仏教徒たちは、自己が存在するという幻想から自らを解放しようとする。
自分が存在しなければ、何一つ失うことはない。
死ねば自分が消滅するのではないかと心配しているから、死は恐ろしいのだ。
だが、もし自己がなければ、消滅するものもない。
しかし、「生きてて良かった」がある以上、
「死んだ方が良かった」は否定できない。
魂など存在しない。私たちは機械にすぎない。
もちろん、ただのありきたりの機械ではない。
私たちは驚くべき機械だ。
愛したり、夢を抱いたり、創造したりする能力があり、
計画を立てて、それを他者と共有できる機械だ。
私たちは人格を持った人間だ。だが、それでも機械にすぎない。
そして機械は壊れてしまえばもうおしまいだ。
死は、私たちには理解しえない大きな謎ではない。
つまるところ死は、電灯やコンピューターが壊れるとか、
どの機械もいつかは動かなくなるといったことと比べて、
特別に不思議なことではない。
人生が、価値あるものをもう提供できなくなるまで生きる力が
私たちにあった方が、間違いなく望ましい。
少しでも長い人生を送ることが本人にとって全体として良い限り、死は悪い。
そして少なくとも多くの人にとって、死は早く訪れ過ぎる。
だがそうは言っても、不死が良いということには絶対にならない。
不死は災いであり、恵みではないかもしれない。
生きてこられたのは幸運だったと気づいても、
生き続ける方が必ず幸せだということにはならない。
残念ながら、生きている方が良いとは、
もう言えなくなる時を迎えた人もいる。
年老いてそうなったら、人生は何が何でも、いかなる状況下でも
しがみついていなければならないものだとは言えない。
手放すべき時が来る。
エンジンオイル、メーカー、OEM仲間の経営塾より