曾野綾子
三浦朱門の知り合いの青年が、
高校時代にアメリカに留学していた時のことです。
高校の階段の手すりに腰を掛けて友人としゃべっていて、
バランスを崩して転落してしまった。
頭のいい青年でしたが、典型的な優等生ではなくて、少しやんちゃな若者だったらしい。
彼は、その事故で車椅子の生活を送ることになりました。
それで母親が彼を日本に帰すか、アメリカへ行って面倒を見ようとしたら、
本人は、「大丈夫。ぼくが全部一人でやりますから」と言って、
車椅子で大学を受験して入り、大学での生活もほんとうに一人で乗り切った。
すばらしい人ですね。
その青年も、ケガをした直後は当然いろいろ悩んでいた。
その時一人のカトリックの神父が、彼にこう言ったそうです。
「ないものを数えずに、あるものを数えなさい」
それは慰めでも何でもないと思います。
誰にも、必ず「ある」ものがあるのです。
でも、人間というのは皮肉なことに、自分の手にしていないものの価値だけを
理解しがちなのかもしれません。
自分が持っていないものばかりを数えあげるから、持っているものに気づかないんですね。
私は、日本で生活していてもアフリカを基準に考える癖が抜けません。
アフリカには、人間の原初的な苦悩があります。
生きられないということです。
貧乏で食料が買えないから満腹したことがない。
ここ数ヶ月、体を洗ったことがない。
雨が降ると濡れて寝ている。
動物と同じです。
病気になっても医者にかかることができず、痛みに耐えながら土間に寝ている。
そいう人たちのことを思ったら、私たちの暮らしはどれほど贅沢なことか。
世界の貧しい人たちは、1日に1食か2食、口にできれば、それでごく普通の生活です。
日本人は、グルメとか美食とか、食事がどんどん趣味的になっていますが、私など、干ばつに襲われた年のエチオピアで、もう体力のなくなってしまった男の人が地べたに座り込んだまま、まわりに生えていた草をむしって食べていたのを見て以来、どんなものを食べてもごちそうだと思っています。
日本は、山があるおかげで水にも恵まれています。
そのありがたさを普通の日本人は意識しないでしょう。
しかし、砂漠地帯に行けば、水の貴重さがよくわかります。
あらゆるオアシスは必ず特定の部族が所有していて、そこから所有者の許しもなく一杯の水でも飲めば、射殺されても仕方がない場合がある。
水は命の源だから、その管理は信じられないほど厳しいんです。
私たち日本人は、水汲みに行く必要もなく、水道の蛇口をひねれば水があふれるように出て、飲める水でお風呂に入っているし、トイレにも流している。
言ってみれば、ワインのお風呂に浸かって、ワインで水洗トイレをきれいにしているようなものです。
お湯が出るなんて、王侯貴族の生活です。
自分の努力でもなく、そういう贅沢をしていられる国にたまたま生まれさせていただいた。
その幸せを考えないではいられません。
そうすると、少しぐらいの不平や不満は吹き飛んでしまうんですね。
これが私の言う「足し算の幸福」です。
自分にないのものを数えあげるのではなく、今あるものを数えて喜ぶ。
そんなふうにスタートラインを低いところにおけば、不満の持ちようがないと思うのですが。
今の日本は、みんなの意識が「引き算型」なんですね。
水も電気も医療もすべて与えられて当然、と思っているからありがたみがまったくない。
常に百点満点を基準にするから、わずかでも手に入らないとマイナスに感じて、どんどん「引き算の不幸」が深くなっていく。
小林正観さんは、今この瞬間に、一瞬にして幸せになる方法があるという。
それは、「今、幸せだ」と感じること。
小林正観さんは、 「幸せという状態」があるのではなく「幸せを感じる自分」がいるだけだという。
お風呂にゆっくり入って、手足を伸ばしたとき「ああ、しあわせ」としみじみ感じたら、それが幸せな状態。
炎天下でのどがカラカラのとき、冷たい水をゴクゴク飲んで、「ああ、しあわせ」と感じたら、それが幸せな状態。
つまり、「ないものを数えずに、あるものを数える」ということ。
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