『呪われた部分 有用性の限界』

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ジョルジュ・バタイユ

スペインの街のいたるところで、手足のない浮浪者を見ました。彼らは、純粋に庇護を受ける存在であり、「生産性」「有用性」の観点から言えば、排除されるべき存在です。すべての人間の価値を「生産性」「有用性」で判断することは、我々の社会の存在理由を脅かすものであり、決して許されるべきものではない。

哲学の人間が経済を語るところに無理があるとの指摘がありますが、「有用性」を追求する資本主義の行き詰まりに気づく良いきっかけであり、人間の孤独が社会問題となっている現在、考える価値がある。

太陽は輝いている。輝く太陽の放射は、太陽がその物質の一部を、熱や光の形で、空間にたえず投射するものである。このようにして浪費されるエネルギーは、太陽を構成する物質が、太陽の内部で破壊されて生み出されたのである。
どの恒星も太陽と同じように、法外な自己喪失に耽っているのである

栄誉とは、有用性への配慮とは独立してエネルギーをそのものとして浪費すること、あるいはある側面では過剰に浪費することによって発生する効果である
何の役にも立たないものは、価値のない卑しいものとみなされる。しかし私たちに役立つものとは、手段にすぎないものだ。有用性は獲得にかかわる──製品の増大か、製品を製造する手段の増大にかかわるのである。有用性は、非生産的な浪費に対立する。人間が功利主義の道徳を認める限りにおいて、天は天のうちだけで閉じている。こうした人間は詩を知らないし、栄誉を知らない

人間が有用性の原則に屈するようになると、人間は結局は貧しくなる。獲得する必要性、この貪婪さが、人間の目的になる──人間の巨大な活動の終局であり、目的になってしまう

アステカ族は、太陽の輝きにふさわしい行為で、他の人々に模範となる行為を作り出した。アステカ族が目を逸らすことなく見つめていたのは、供犠と太陽の輝きの統一、自己の贈与と栄誉の統一である
私たちのうちには栄光への意志がある。この意志は、私たちが太陽のように生きること、私たちの財と生を浪費しながら生きることを求めているのである

人間は、過剰な情熱に耳を傾ける時ではなく、さもしい必要性に動かされる時にこそ、劣った存在に、しかも残酷な存在になる

「栄誉ある行動」だけが人間の生を決定し、その値打を示すのである
工業の過度の発展は、発展だけを目的とするものであり、人間を目的としない

共同体は、危険に特有の偉大さを欠いた瞬間から、崩壊し始める
人間は、豊かに死ぬか、貧しく死ぬかのどちらかしか選べない

自律するためには安定性と、貪慾を満足させることが必要であるが、ここで立ちどまってはならない。これは貪慾な自律なのである。これを超えたところに、喪失と結びついた自律がある。これは奪う自由ではなく、与える自由であり、富を蓄積する自由ではなく、みずからを喪失する自由である

資本主義の世界で勝利を収めるには、蓄財し、資産を増やす材にだけ投資する必要がありますが、この考え方では、社会の一体感は生まれませんし、1000年もつ建物も生まれません。
「有用性」では、社会に本当のエネルギーは生まれないのです。現代の人間が生み出したのは、100年もつ面白みのないヘーベルハウスであり、人間の美意識を刺激するパルテノン神殿ではない。人間には、栄誉が必要なのです。

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