「何かを知っている事」と「相手の意図や言葉を正しく読み取る事」の  どちらが重要かといえば、間違いなく後者です。  

知識は時間・時代の流れと共に、常に新陳代謝をしていかなければなりません。   その新陳代謝のスピードと質を決めるのが「読み取る力」です。 そして、読書力そのものを鍛えるためには、 今の自分の読書力を超えるものを、読むしかありません。

言葉を表面的に、なぞっていくだけで分かってしまう文章を、 いくら読んでも理解力が高まる筈がありません。私たちは「知る喜び」を手に入れる事にかまけて、 「理解する力を高める作業」を置き去りにしてはならないのです。 

なぜ「古典」なのか? 理解する力を高める作業は、古典を読まなくても可能です。 具体的でない言葉で書かれた本、想像力を駆使しなければ理解できない本、  歯を食いしばって読まなければならない本、そういう本であれば、良い訳です。  手っ取り早くて、ハズレがないのが「古典」というだけです。  

大事なことは「具体的でない」という部分。 違う言い方をすれば「抽象的である」ということ。 あるいは「経験を超えている」ということ。 そういう読みにくい言葉と闘うことで、 私たちの理解力、想像力は高まっていきます。  

古典を読むぞ-!とか息巻いて、いきなり『方法序説』とか『エミール』とか  読んでも沈没する可能性が大でして、 どの程度まで遡るべきかというのは、実に難しい問題です。

第一段階は、30年以上前に出た本でいいでしょう。 30年というと「一世代」経過します。 その頃出版されて、未だに残っている本には、ハズレがありません。  そこから1960年以前の本へ。 昭和初期から戦後まもなくに書かれた本は、 「読みやすさ」なんてものが、一切考慮されていません。読者を選ぶ本がほとんど。そこに挑むわけです。 そして近代へ。さらに西洋の古典へと... 広げていって見ては、いかがでしょう?

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