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「バサラ」とは、金剛童子のもつ武器“バージラ”よりきたもので、
実力と合理性を欠く旧来の権威の一切を否定、
伝統による拘束を排し、思いのままに行動する。
財のあるものは財、能力者はその能力のすべてを
散じ尽して生きようという精神のこと。

国民が苦難を予期し、暗澹たる気分に陥っている
その最中に、贅沢な一人の坊主が自分の楽しみのためだけに、
いわゆる「民の膏血」を絞り上げて造った、
それがヴィラ・デステの名園なのである。
しかし考えてみると、当時十数万人と推定される
フェララ侯国の民百姓は数年間、そのための増税など
いろいろの賦課で苦しんだろう。
だが、この大司教がまったく自分の好みから、
そしてそれだけに凝りに凝った
何とも馬鹿々々しい噴水庭園を造ったおかげで、
その後数百年にわたって、
この土地は大いに潤ってきた。
現在もその恩恵をフルに受けているともいえる。
今後もずっと受け続けるだろう

支配者の贅沢三昧がすべていけないということになれば、
ヴィラ・デステだろうがタジ・マハールだろうが、
今日の文化遺産といわれるものは、
ほとんど全部拒絶されるべきものになる。
だが、それが後世に残り、
より大きなタイム・スパンで見るとき、
その地の人々にとって
大きなプラスになっていることが多い
民衆にまかせておいたら、
彼らは絶対にそんなものを造営しようなどと
思わなかったはずである

逆説的な言い方だが、つまり、
はた目にはいかにも馬鹿々々しい、
内実性にも乏しいものを途方もない巨費と人智を尽して
造り上げたからこそ、
より一般性をもって、趣味、嗜好、信仰などを異にする人々を
文化の差異を乗り越えて魅きつけ、感嘆させるのだ。
換言すれば、時代を異にし文化を異にする人間が
触れ合えるのは、
時代や文化に拘束される実用性や合目的性ではなく、
まさに人間のもつ夢によってだ

男たちが叩きのめされて自失した結果、
女性主導によって家庭絶対主義が新社会のシンボルになった。
女性それ自体はともかく、母性というのは子供に対する無限愛、
いわば親子一体としての利己主義の権化でもある。
その暴走がはじまったのだ。
家庭絶対主義では、夢や無駄は一切許されない

途方もない大変革は、馬鹿々々しさと集中、
この二つからのみ生れる

大きな成果は、一見無駄なことに
まとめて金を投入してこそ出てくる

日本にはクォリティ・ペーパーを読もうにも、
そもそもそれが存在しない

たんなる内助の功では、どれほど立派な妻でも
夫の仕事の量はふやせても質を変えることはできない。
そのためには悪妻の方がよいことが多いのだ

本を読むにしても、娯楽本は別として、
結論まで与えてくれることを期待するのではなく、
考えさせてくれる本を選んで読むことだ

エジンオイル、OEM仲間の経営塾より