『あの会社はこうして潰れた』

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帝国データバンク情報部、藤森徹

〇老舗ゲーセンのザ・サードプラネット赤字続きの経営でキャッシュフローが乏しいため、リニューアルが後手に回った。ゲーム機器や施設の陳腐化はさらなる客離れを招いた。そこにスマホを活用したソーシャルゲームの普及と消費増税の影響が襲いかかり、経営が行き詰まった

〇あきれたことに、加賀屋の経営陣は着服した総務経理部長を解雇しなかった。それどころか、そのまま経理業務を任せていた。「ほかに経理が分かる社員がいなかった」からだという

〇脱毛大手のジンコーポレーション急成長のあおりで既存会員の予約が取りにくい事態が発生。サービスに不満を感じた会員からの解約が増加し、資金繰りの計画が合わなくなった

〇財テクが恐ろしいのは、社長自身が情報を抱え込む衝動を抑えられなくなることだ。「もうかったら人には言わない。ましてや損をしたら絶対に外部には言わない」のだ。ゆえに発覚したときは、損失がとてつもない規模に膨らんでいることが多く、手遅れとなったケースが少なくない

〇白元の経営は、鎌田一族による同族経営が築かれていた。初代社長の泉は創業以来「本業一筋」を理念に掲げ、「身の丈に合った経営」を貫くことで業界トップに上りつめてきた。ところが三代目の収が社長に就任したころから、「身の丈」から外れた経営が目につくようになる。子会社の設立と、M&A(合併・買収)戦略により、銀行からの借金は膨らみ続ける。中国で現地法人を設立したほか、明治薬品工業、大三、キング化学などを立て続けに買収し、グループの拡大を進めていった。
しかし、結局は事業拡大路線が思ったほどの効果が出ないことから、わずか数年の間に吸収合併や、統廃合を強いられる。結果的に、収の社長就任以来、借入金は3倍以上の80億円弱にまで膨れ上がった
帝国データバンクが保有する企業データベースによれば、老舗といわれる「業歴100年企業」には3つの特徴があることが分かっている。
1つ目が事業承継(社長交代)の重要性。
2つ目が取引先との有効な関係。
3つ目が「番頭の存在」だ。
白元はこの3つが十分に備わっていなかった

〇年末年始、大型連休、年度末などの直前に動きを活発化させるのもパクリ屋の特徴の1つ。決算直前やシーズンの節目に売り上げ実績が欲しい企業にとって、新たな取引先からの大口受注は干天の慈雨に思えてしまう。これを逆手に取ったうえ、長期の休暇を挟めば、逃亡や証拠隠滅の時間を稼げるのが、その理由だ

エンジエオイル、OEM仲間の経営塾より

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シェーカー教徒の教え

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祈るためにひざまづく必要はないのです。
人が働く。それはそのまま祈りなのです。
勤労を重んじて、毎日の生活を人生という仕事として生きる。

シェーカー教徒たちの手仕事が生み出した簡素で実用性の高い道具の数々は世界中で愛されている。彼らは良い1日の証としての、目立たない、簡素な、慎ましい物を残した。

1個の人生と言えるものにとって必要なのは、達成や感性という人生の時間ではなくて、良い1日という人生の時間だ。今日も1日良く生きよう。人生という仕事を全うするために。

エンジンオイル、OEM仲間の経緯塾より

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「本当は世界が羨む最強の日本経済」

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イェスパー・コール
日本人は物事を悲観的に考える。本当は、そんなに思い悩む必要は無い。日本は様々な面で、世界が羨む水準にある。日本の価値は、捨てたモノではない。
日本は失われた20年の傷から、未だに立ち直っていない。いつの間にか中国にGDPで追い抜かれて、明るい展望は何一つない。そんなネガティブなイメージを多くの人が持っている。
しかし、それは見当違いである。他の国と比べて、日本の持つ優れた点は多い。日本は他の国と比べて、格差が小さい。アメリカでは、純金融資産が1万ドル未満の人が28%もいるのに、日本は9%しかいない。逆に、アメリカでは純金融資産を100万ドル以上持つ人が6.4%いるにも拘らず、日本は2%しかいない。アメリカでは、「カネという指標がすべて」なので、際限なく利益を求める強欲な経営が目立つ。資本家は、より資産を増やすが、そうでない人は厳しい状況に追い込まれる。
一方、日本は株主利益が唯一無二の目標ではない。従業員や取引先、消費者などステークホルダーの利益をバランス良く確保する経営だ。日本が悲観論に陥り易いのは、データで物事を語る習慣が無いからだ。そして、エリートの信頼感が欠如しているからだ。世界から見れば、日本の社会は安定し、足元の経済が悪くない事を考えれば、自らを過小評価する必要は無い。

エンジンオイル、OEM仲間の経営塾より

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「ごちゃまぜ」で暮らそう

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雄谷良成
「Share金沢」では、障害者や高齢者、学生らがごちゃまぜになって暮らしている。人間が人間らしく生きること、それは多くの人と交わり、助け合いながら生きて行くことだ。それは障害者や高齢者も同じだ。
周囲の人と交わることで、笑顔が生まれ、元気になる。よく通ってくる認知症のおばあちゃんが、重度身体障害者の男性にゼリーを食べさせようとした。
男性は車いすで、首もほとんど動かせない。当然上手く行かずに、ゼリーは床に落ちてしまいました。しかし、毎日繰り返すうちにゼリーを食べさせれるようになった。どうしてかと観察すると、男性の首の可動域が、少し広がっていた。おばあちゃんの深夜徘徊も激減した。
私がゼリーを食べさせないと、彼が死んでしまう。そんな、やりがいが生まれ、早起きして施設に通うようになった。人と人が交わることで、素晴らしい化学反応が起きる。

エンジンオイル、OEM仲間の経営塾より

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自分の存在価値を知って幸せになる

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コップの機能を考えてみます。お湯を溜める、水を入れるなど2つの機能があります。新幹線を考えてみると、物を運ぶ、人を運ぶなど2つの機能がありあります。機能というのは、つまり役割ということです。その役割をいくつ果たせるのか、と考えてみると、鉱物の場合、だいたい2つくらいの機能があります。
では、植物の場合はどうでしょうか。木の実を落とし動物にえさを与えている、二酸化炭素を酸素に変えている、防風林、防砂林などの役割もあり、いろいろと考えていくと、20くらいの機能がありそうです。
では、動物の場合はどうでしょうか。動物は、食物連鎖の中に存在していますから、自らが餌になってほかの動物を生かすこともしています。また、種を運んだり、最近では人を癒すペットとしての役割も持っています。こういったものも含めていろいろと考えていくと、200くらいの機能がありそうです。
では、人間の機能というのはどのくらいあるのでしょうか。私はそれをずっと宇宙に問いかけていました。そして、2年後に次のような答えがきました。「人間の機能は、喜ばれた数だけ存在する」たとえば、満員電車の中で、おばあさんに席を譲って「ありがとう」と言われた。その瞬間に、「私」がこの世に生まれた意味が一つ誕生しました。駅で、びしょ濡れになっている人がいて、自分が帰る方向が一緒だったから、「途中まで一緒に行きましょうか」と言って、「ありがとうござます」と言われたら、それがまた一つの機能になるのです。
しかも、相手は人間だけではありません。たとえば、ここにグラスがあって、これをドンッと乱暴に置いたら割れてしまった。そうすると、このグラスの魂は「ああ、この人に持たれたくなかった」と思うわけです。喜ばれていない。けれども、本当に心を込めてそっとおいた時には、「ああ、この人に持ってもらってよかった」と思ってもらえる。それが、「喜ばれた」ということです。
人間だけではなくて、すべてのモノから喜ばれた時に、「私」という存在は機能を持つことになる。実は、この世に生まれたことの意味は、喜ばれることであり、その機能の数は、人間だけは上限がない。今、「私」がそのことに気がついて、自分がそのように生き始めると、人間である「私」の機能は、無限に増やすことができます。人間だけは、自分の意志によって、機能をいくらでも増やすことができる。人間の喜びや幸せというものは、最終的には、自分が喜ばれる存在であることに尽きるようです。

エンジンオイル、OEM仲間の経営塾より

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『成功する人は偶然を味方にする』

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ロバート・H・フランク
多くの人が、大金持ちになるのは才能があり、勤勉で、社会的生産性の高い人たちだと主張する。だが、それは言いすぎだ。口パクの男性アイドルグループや、世界経済をめちゃくちゃにしながら大金を稼いだデリバティブのトレーダーを見れば分かる。ただし、ビジネスの成功者のなかには才能豊かで勤勉な人は多くいる。一方、才能があり勤勉でありながら、経済的に成功しない人のことはどう考えるべきか。
私は、ブータンの山岳民族出身の青年ビルカマラン・ライのことをよく考える。私が平和部隊のボランティアとしてネパールの小さな村に滞在していたときの料理人だ。ライはこれまで私が出会った人のなかで、おそらく最も起業家精神と才能にあふれている。屋根葺きも、目覚まし時計の修理もやってのける。料理の腕がいいだけでなく、靴底の張替えもお手の物だ。牛のふん、泥、その他タダで手に入る材料を使って漆喰をつくり、壁塗りもする。ヤギもさばく。地元の商人とよい関係を築きながら、厳しい価格交渉ができる。ライは読み書きを習ったことはないが、ネパールの村で必要なことはほとんどなんでも器用にこなした。それでも、わたしが支払ったわずかな金が、ライの人生でいちばん高い給料だっただろう。もしライがアメリカなどの豊かな国で育ったなら、もっと裕福な暮らしができただろうし、華々しい成功をおさめていたかもしれない。
経済学者ブランコ・ミラノヴィッチによると、世界の人々の所得格差のおよそ半分は2つの要素で説明がつく。住んでいる国と、その国の所得分布だ。ナポレオン・ポナパルトが述べたとおりである。「すぐれた能力も、機会が与えられなければ価値がない」
才能と勤勉が経済的な成功を保証しないとしても、高く評価される才能をもつ人や、集中して疲れも見せずに働く能力と意欲のある人は成功しやすい。このような個人的資質は遺伝と環境の組み合わせから得られる。(ただし、近年の生物学研究では、個人的資質の獲得も偶然の影響が大きいと言われている)。朝起きて働きたいと感じるかどうかは、遺伝と環境で説明がつく。働きたいと感じられる人は幸運だ。同じように、頭のよさも遺伝と環境でほぼ決まる。頭がよければ、社会で高く評価される仕事をうまくやってのける可能性が高い。よって、その点でも運がいい。
わたしは運・不運が個人の資質の違いにつながると言いたいのではない。近年の研究で明らかになったが、偶然のできごとや環境的要因が…個人の資質や欠点とはまったく無関係のものが…人生を左右する。ちょっとしためぐり合わせのようなできごとが、のちに大きな影響をおよぼすことも多い。
たとえば「モナ・リザ」はどこが特別なのだろうか?キム・カーダシアンは?2人とも有名だが、ときに「有名であるがゆえに有名になる」こともある。そうした人々の成功の理由を解き明かそうと客観的な資質をいくら詳しく調べても、たいていは有名でない人とあまり変わらない。華々しい成功物語でさえ、偶然のいたずらでまったく違う結末になっていたかもしれない。ルーブル美術館の中で、なぜ『モナ・リザ』にだけ大勢の人が群がっているのか…。「『モナ・リザ』は、かつてはほとんど世に知られていなかった。一躍有名になったのは、1911年のビンセンツォ・ペルージャによる窃盗事件からだ。ルーブル美術館で維持管理作業をしていたペルージャは、ある晩、着ていたスモックの下に「モナ・リザ」を隠し、姿を消した。この盗難事件は広く報道され、2年後、フィレンツェのウフィッツィ美術館に絵を売ろうとしたペルージャが逮捕されて解決をみた。世界中の新聞がこの事件を取り上げ、『モナ・リザ』は世界的名声を得た最初の美術品となった」。
成功するのは運や偶然がほとんどだから、まったく努力などしなくてもいい、と言う話ではない。ただ、幸運や不運は、生まれた国や時代、あるいはまわりの環境が大きく関係しているということだ。我々は、この時代に、しかも、日本に生まれただけでも運がいい。運がいいと思っている人は、今与えられている幸運に気づける人。愚痴や文句ばかり言っている人は、その運に気づけない。偶然(ラッキー)や今ある幸せに気づき、それに感謝する人は運がいい。運や偶然を味方にする人でありたい。

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『人生にはチャンスが三度ある』

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萩本欽一

成功っていうのは、安全な道にはない。安全な道には、失敗もない。大成功というのは、ひじょうに危険な道にしかない。どうして危険な道が大成功なのかというと、危険な道はめったに人が通らないから。だから、大成功なんだよね。

困った時に「ああ、困った、俺ってなんて情けないんだろう」て言う人には、運は来ない。運は、困った時に「困ったはチャンスかもしれない」と言いう人にしか来ない。でも、10人のうち9人は「困った」って言う。だから、これまでの歴史を見ても、世の中で成功をおさめる人っていうのは、全体の1割くらいでしょう。

人間て、いつも困るようにできてる。10人のうち9人は困ったから逃げちゃう。「困った、困った」って言いながら、逆に運のない方に行ってしまう。

たとえば、会社で窓際に行かされたら、「自分は会社で認められてないんじゃないか」ととるわけです。「認められてないんじゃあ、もうダメだ」って。会社を自分からやめて、もっと困っていく。それが9人です。でも、そのなかにひとり、「困った」という言葉を使わない人がいる。窓際に行かされても、「自分は必要じゃないんだ」とか、言わない。「窓際でお休みしろっていうことは、これは転職しろっていうことかな。ということは、俺にとって今がチャンスなのかもしれないな。じゃあ、そっちをちょっと考えてみるか」って、この機会に逆に踏ん張る。その1人が成功していく。

だから、みんなが「困った、困った」って言ってる時は、僕は逆に「何かいいことがあるぞ」って思う。これまでだって、困った後に、大成功にぶち当たってる。とんとん拍子に行って大成功じゃないですよ。全部、困ったの次が大成功。その繰り返しだった。

テレビの番組だって何度も外してるけど、そのたびに、「ああ、エライことになっちゃった。この困ったを困ったじゃなくしなければ」って、思いながらやってきた。希望もすごくあった。「よし、これはきっと、次に何かいいことあるに違いないぞ!」って。

エンジエオイル、OEMの仲間の経営塾より

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『「感謝」で思考は現実になる』

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パム・グラウト

人間の脳は、幻想と現実の区別がついていないから、「こうだったら嫌だなあ」「こうだといいな」などの思考の中から、できるだけたくさん考えていることを選んで、現実にしようとする。

私たちが見ているのは現実の本当の姿ではない。過去の怒りや恐怖が投映された、ただのホログラム(幻想)だ。自分は現実をそのままに見ていると思っているかもしれない。テレビカメラのように、ただありのままの形や動きをとらえているだけだと信じているかもしれない。でも本当のところ、人間の目には1億3000万個の光受容体がある。本当はもっともっとたくさんのものが見えている筈だ。しかし、数百億のニューロンやシナプスとの共同作業で、意識が見たいと思っているものだけを見せるようにしているのだ。

目に見える世界だけが現実だという思い込みを捨てることができれば、新しい可能性の扉が大きく開く。本当の「現実」は、私たちが思っているよりもずっと魅惑的で、驚きと発見に満ちている。

2009年6月、「神経科学ジャーナル」誌にある研究が発表された。機嫌が悪い状態の人は、脳の視覚野と呼ばれる部位(見ることを司る部位)が、情報を正しく処理できなくなるという。
そして機嫌がいい人は、機嫌が悪い人に比べ、探し物が見つかる確率が50パーセント高くなる。

感謝の周波数に乗っている人は、いいものを引き寄せるエネルギーを発している。正しいときに、正しい人と出会うことができる。難しい問題にぶつかっても、まるで奇跡のように解決策が出現する。そして、まわりの人もそれに気づく。幸せのオーラを出している人の近くにいると、それだけで自分の気分も上向きになる。その秘密は、彼らの言葉や行動にあるのではない。ただ彼らの近くにいると、幸せのオーラに包まれたような気分になる。感謝の周波数に乗っているときは、自分でも必ずわかる。とにかく人生がうまくいからだ。

私自身も、感謝の周波数で振動しているときは、いい文章が書けるし、いい母親になれるし、食事もおいしく感じるし、音楽を聴くときの喜びも大きくなる。まったく知らない人からラブレターが届いたりもする。

強引に愛を引き寄せる電波を出したいのなら、遊び心が大切だ。世界の驚異に素直に驚き、そして感謝しよう。そういう人だけが、宇宙に真剣に相手をしてもらえる。奇跡は、一切れのパイと同じくらい、簡単に手に入るものなのだ。

ただし、たった一つだけ条件がある…。その条件とは、頭の中の意地悪な声を聞くのをやめることだ。頭の中の意地悪な声を聞き続けていると、エネルギーに雑音が入ってしまう。

私は、『こうして、思考は現実になる』という本の中で、ある女性の話を紹介した。彼女は「バスが来ない」と文句を言うのに忙しく、そのせいで待っていたバスが来ても気づかなかった。苦しみの周波数に乗っていたせいで、いちばん欲しいものが目の前にあっても気づかなかったのだ。
つまり、不機嫌になっていると、バスが「消える」ということだ。

そう考えると、不機嫌なエネルギーを出しているときは、雑音が多く入るので、他にもたくさんのものを消してしまっているに違いない。では、どんな「雑音」が、私たちの願いをかなえるじゃまをしているのだろうか?
たとえば、不機嫌、不幸、愚痴っぽい態度は、すべてのいいものを遮断してしまう。腹を立てたり、人生の問題のことばかり考えたりしていると、愛と恵みの周波数を遠ざけてしまう。聖なるエネルギーとの接続を切ってしまっている状態だ。

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『自分を鍛える!』

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ジョン・トッド

仲間の間でけっして感情をむき出しにしないこと。たとえ意地悪をされたり怒らされたりしても、そこで興奮してはならない。どんなに大声で怒りを爆発させたくとも、完全に冷静を保ちなさい。

「冷たい刃ほど切れる」のだから、必ず論争に勝てるはずである。挑発に対して冷静に立ち向かう人のほうが、必ず仲間の支持や尊敬を集める。「すぐカッとなって喧嘩腰になるような人間は、放っておけばいい。そういう人間の喧嘩相手はすぐに見つかる。彼以上に強い者があらわれて、あなたよりうまくやっつけてくれる。

口論好きな人間は、一生決闘をし続けなければならない」論争は通常、自分の意見を強く押し出し、勝利をめざして争われるものであり、仲間の間で行われるべきものではない。どちらか傷つかなくてはすまない。議論がそこまで昂じたら、すぐにやめるべきである。

考えや意見を対話によって交換し合えるということほど、人間に与えられたすばらしい贈り物はないのだ。これは永遠の慰めでもあり、たいへん役に立つ道具でもある。また、同様に、口はわざわいのもとともなりえる。良くも悪くもなり得る道具である。したがって、われわれの責任は重大である。言葉ににじみ出る感情は、多かれ少なかれ他の人に影響を与える。
それが正しい影響なら結構だが、そうでなければとんでもないことになる。この贈り物の使い方には重大な責任が負わされていることを、一日でも忘れてはならない。

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『人生に必要な100の言葉』

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精神科医、斎藤茂太

私が体得した最良の経験則のひとつに「加減上手になる」ということがあります。ここで言う加減とは、一言で言えばバランスということです。私がいつも加減上手だったということではありません。むしろ、これまで何度も、自らの加減下手を意識したほどです。そして、その度ごとに、もっと加減上手にならなければいけないと思い、自分なりにあれこれと思案し工夫した結果、何とか「まあまあの加減上手」になれたということなのです。

〇「完全を望むと麻痺(まひ)が来る」イギリスの名宰相・チャーチル
完全を望むということは、いささかのミスも許されないこころの状態です。こころが最大限に張りつめた状態ということです。一瞬の後には破裂してしまうかもしれないのです。どんな人にも挫折や失敗はついてまわるものです。こころに麻痺が生じないためには、完全を望まない、つまり程よいバランスをとらねばならないということです。

私は、ここまで理解できたときに、「加減」という言葉に思いを馳せたのです。そして、この言葉を日常の「しゃべり言葉」に移し替えてみたときに、「手加減」「さじ加減」「いい加減」をメモに記し、どうやら人生のコツは、こんなところにもあると実感したのです。

「手加減」を『広辞苑』で見ると、「相手の程度・場合に応じて、ほどよく調節すること。手ごころ」とあります。
また「さじ加減」は、もとはクスリの調合具合を意味するときに使われました。気になるのは「いい加減」です。デタラメとか、どうしようもない、というような意味に使われることが多いのですが、『広辞苑』には「よい程合い」ともあります。温泉に浸かったときに、思わず「いい湯加減だなあ」と、よく口に出します。とても気分がいい、最高!と、こころのなかで呟いたリもします。私は、むしろ「いい加減」という言葉には、大切なことがたくさん含まれているという思いが強いのです。

現代は、すべてが慌ただしく、いつでもどこでも何かに追われる時代です。こんなときこそ、「手加減・さじ加減・いい加減」と、こころのなかで呟いてみて、自らに、ゆとりある豊かな「こころの花園」をつくっていただきたいのです。

対人関係のコツは、「相手を片目をつぶって見るくらいがいい」と言う。もっと言うなら、「片目はつぶり、もう片方も薄目でぼんやり見る」くらいがちょうどいいのかもしれない。
人は、どうしても相手のアラや短所に目がいってしまう。そして、相手に完璧を求める。親が子どもに対する接し方もそうだ。自分が子どもの頃、できもしなかったことを子どもに求める。
「いい塩梅(あんばい)」という言葉がある。塩梅とは、料理の味加減、具合、程度のことをいう。つまり、「いい加減」ということ。

エンジンオイル、OEMの仲間の経営塾より

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