『エクスポネンシャル思考』

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エクスポネンシャルジャパン共同代表、齋藤和紀

歴史を見れば明らかなように、いかなるテクノロジーも代替テクノロジーによって置き換えられていきます。材料が置き換えられるのか、それとも、システム全体として違う形になるのか、未来は誰にもわかりません。私たちが手にするテクノロジー、とくに情報テクノロジーは今この瞬間も大きな進化を続けています。この連綿と続く一連の進化が人類の生活も大きく変えてきました。進化のスピードがこれほどわかりやすく顕在化する産業革命の前まで、人間の寿命は40歳そこそこでした。ほんの250年前のことです。しかし、18世紀後半にイギリスから始まった産業革命によって一部の国が一気に先進化し、そこから200年弱で人類の寿命は2倍近くに延びました。テクノロジーがもたらしたのは寿命の延長だけではありません。

手のひらに収まるデバイスから、地球の裏側の情報にも簡単にアクセスできるようになりました。そして、私たちは今、テクノロジーの進化が「さらに加速している」のを感じているのです。今後、多くの仕事が人工知能やロボットに置き換えられていくのは、まず間違いないでしょう。
テクノロジーが私たちの仕事を大きく変えてきたのは今に始まったことではありません。かつて、テクノロジーは電話交換手という職業を生み、そして廃業に追いやりました。同じ職場のなかでも、そろばんを持ち歩いて伝票の合計チェックにいそしんだ昔の公認会計士と、海外のデータセンターを活用し人工知能をフル活用して企業データを分析する今の公認会計士はもはや同じ職場と言うことはできない。
これから先の短期間で、電話交換手に起きた変化、公認会計士に起きた変化と同じことがいくつも起きることは予測できます。これから起きる人間の仕事の置き換えは、私たちの全く予想もしなかった形で表れる可能性があります。人工知能が直接人間の仕事に置き替わってしまうと言うよりも、テクノロジー進化の複合的な帰結として、今ある仕事は間接的に「蒸発していく」という表現が、より正確に状況を表す。

エクスポネンシャルとは、直訳すると「指数関数的」と言う意味。「ムーアの法則」という経験則で定義された進化速度を、はるかに上回る幾何級数的変化のこと。「エクスポネンシャル思考」とは、世界をひっくり返すような、ぶっ飛んだアイデアを出すことだ。
そして、「世界を変えるようなイノベーティブなアイデアは、テクノロジーとテクノロジーの交差点で生まれる」。
レイ・カーツワイル博士は、少なくとも2045年までには、人間と人工知能の能力が逆転するシンギュラリティ(技術特異点)に到達すると言っている。それが起こるかどうかは別にして、それほどテクノロジーの進化のスピードは、我々の想像をはるかに超えて速いのだ。

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『自分を変える読書術』

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堀紘一

企業経営にとっては、運がなにより大切…
このことを私に教えてくれた人物は、故ブルース・ヘンダーソンである。彼はボストンコンサルティンググループ(BCG)の創業者であり、「戦略コンサルティング」という概念を初めて提唱。経営コンサルタントの世界に一種の革命を起こした風雲児であり、私の人生の師のひとりである。
その偉大なるブルース・ヘンダーソンは、経営戦略の重要性について私が問うと密かにこう教えてくれた。「もちろん企業経営にとって戦略は極めて重要なものである。しかし最重要ではない。最も大切なのは運である。しかし、これは人に教えるな」

運が大事だといっているのはブルースだけではない。かつて「経営の神様」と崇められた松下電器産業(現パナソニック)創業者の松下幸之助さんも「成功の条件は運と愛嬌」とおっしゃっている。運があれば大概のことはうまくいくが、運がないと相当努力しても大概のことはあえなく失敗に終わる。

ところが困ったことに、この運ばかりは100%確実につかむ方法がない。何事にも重要な運をキャッチする確かな方法がないと聞いたら「努力なんて金輪際やめた!」と無為無策で世の中に流される生き方を選ぶ人が大半だろう。
でも、運をつかみとる方法がないとしたら、次善の策としてせめて自分にやれることを地道にコツコツ努力するタイプもいる。その姿を見た人は「頑張っているあいつにチャンスをやろう」と思ってくれる。それが思わぬ運につながるのだ。野球の選手でいえば、誰より遅くまでグラウンドで素振りを繰り返していたら、それを密かに見ていた2軍の監督は、1軍で想定外の故障をした選手が出たときなどに、その選手の1軍昇格を推薦しようとするだろう。

真面目に努力していれば、誰でも4番バッターになれるわけではない。世の中はそんなに甘くないが、少なくとも努力をしていればチャンスが訪れる確率は高まる。それをモノにできるかどうかもまた運である。運をつかみとるための日常的努力が野球選手にとっての素振りだとするならば、ビジネスパーソンにとっての素振りは読書に他ならないのだ。読書を通じて教養を磨いて自分なりの哲学を養っておくと、年上の人が可愛がってくれる。するとプロ野球の2軍の監督に目をかけられた野球選手が思わぬ出場機会を得るように、ビジネス上のチャンスをつかめる日もやってくるだろう。

『仕事でも結婚のようなプライベートでも、一大決心をするときには判断材料がなく、限られた情報だけで乾坤一擲、運を天に任せた勝負に出ないといけないシーンは結構ある。そこで頼りになるのは第六感しかないのだが、その勘の背景にあるのも、読書を通じて長い時間をかけて養ってきたその人の教養だと私は思っている。背後に豊かな教養がある勘は第六感だが、後ろ盾も根拠もなにもない勘は単なる山勘で失敗するリスクも高い』
読書をするということは、言葉を身につけることだ。言葉が身につくと、気の利いたことが言えるようになる。そして、相手を不快にせず、機嫌よくさせる言葉のセンスも身につけることができる。それが、「愛語」。その反対に、言葉のセンスがないと、相手を不快にする。相手を傷つけたり、二度と会いたくないと思わせてしまう。相手を不快にする人に、運やチャンスはやってこない。

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『ココ・シャネルの言葉』

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山口路子

《かけがえのない人間であるためには、人と違っていなければならない》シャネルは生涯を通して、「他の人と自分を区別する」ことを意識し続け、「他の人と同じことをして安心する」人たちから遠く離れたところにいました。「自分と自分以外の人との違い」について、「自分にできて他の人にできないこと」について、また逆に、「他の人がいともたやすくこなしているのに自分にはできないこと」について、考えた人でした。

シャネルの成功の理由は、もちろん1つではないけれど、「人と違っていること」に異常なほどのこだわりをもっていたことは、確かに成功の理由の根幹にあるでしょう。シャネルが71歳でカムバックしたとき、同業者であるバレンシアガは「シャネルは永遠の爆弾だ」と言いましたが、この強烈な賛辞は「かけがえのない人間」でありたいと願い続けたシャネルを喜ばせたことでしょう。

《20歳の顔は自然がくれたもの。30歳の顔は、あなたの生活によって刻まれる。50歳の顔には、あなた自身の価値が表れる》どのような生き方をしてきたか、どのような生き方をしているのか。それは顔に表れる。シャネルの有名な言葉のひとつです。進歩した医療技術で、どんなに肌に張りを与えようとも、重力に逆らった施術をしようとも、あるいは写真で修整を加えても、「精神の老化」は隠せません。

《私はこれから起こることの側にいる人間でありたい》シャネル63歳。スイスでの隠遁生活に退屈していたころ、「まだ終わったわけじゃないわ」はほとんど口癖でした。60歳を超えたシャネルの口から「はじめからすべてをやり直す準備はできている」と聞いた人々は、その不屈の精神、年齢をものともしない精神に圧倒されました。モード界にカムバックしたのは、それから8年後のことでした。

『シャネルは、物を買うことではなく、自分の格を上げることのためにお金を使いました。どんな物を持っているか、ではなく、どんなことをしているのか、で勝負したのです』

『シャネルが、モード界にカムバックしたのは71歳のときでした。「退屈よりも大失敗を選んだの」という言葉のとおり、困難覚悟の決断でした。それから87歳で亡くなるまで、最前線で働き続けたのです』
人はこの世では、一回限りの人生しか生きられない。二度はないと思ったとき、「退屈よりも大失敗を選ぶ」生き方は、凄まじいばかりの潔さだ。「晩節を汚さない」という生き方もあるが、晩年に大失敗をするのもまたそれでよし。どんなときも、
いつであっても、当事者でいることは自律した人生を生きる上でとても大事な価値観だ。評論家のように批判ばかりして、ひとごとのように話す。だからこそ、「 これから起こることの側にいる人間でありたい」。
引っ込んでばかりはいられない。かけがえのない人生を全力で生き切りたい。

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『 人を味方につける男、敵にする男 』

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櫻井秀勳

現在、多くの出版社から「引き寄せの法則」式の本が出ています。幸せを引き寄せる方法を分析した、スピリチュアル的な考え方のものが多い。
スピリチュアルがいいかどうかは別として、幸せを引き寄せるには、自分だけでなく周りの人たちも同時に、幸せな気分にしていかないといけません。自分だけ幸せを引き寄せようとしていたのでは、結局、自分も幸せになれないのです。

この引き寄せの法則は、いわば「相手に花を持たせる」という考え方と、不思議なくらい一致しています。「相手に花を持たせる」とは、その人を立てて功を譲ることです。こうすることにより、相手をよろこばせ、感謝されるのですが、そのことによって、相手も自分自身も、幸せを引き寄せることができるのです。
反対に、「俺が、俺が」と出しゃばったら、相手は怒ってしまうし、周囲もそんなあなたに冷たい視線を向けるでしょう。

しかし、手柄を相手に譲ることは、そう簡単ではありません。戦国時代には、敵の武将に最初の一太刀を浴びせた男と、その敵を最後に仕留めた男が、互いに手柄を譲らず、決闘になって、殺し合うのがふつうでした。現在でも、出世がからむ場合など、容易に勝ちを譲ろうとはしないでしょう。
だからこそ、相手に花を持たせる度量の持ち主が、上の人から注目される存在になっていくのです。とはいえ、相手に花を持たせたことを、上の人がしっかり気がつき、認めてくれるかという不安があるのも事実です。

長い目で見ようとせず、毎月の売上だけで社員を判断するような会社に入ったら、それこそ悲劇です。だからこそ、目先の利だけに走った就職活動は、ときに大きなソンを生むこともあるのです。そうなったら即、辞めないと、ズルズルと不幸の淵にはまってしまうでしょう。

しかしふつうは、どんな会社にも信頼できる人の一人や二人は、必ずいるものです。また、誰も見ていなくても、相手に花を持たせればいいではありませんか。あなたの人間形成上、決して悪いことではありません。
相手に花を持たせるとは、その人を立てて功を譲ったり、 人に名誉や手柄を譲ったり、相手に恥をかかせなかったりすることだ。

何か議論になってしまったようなとき、あえて反論せず、「そうですね」と言って引き下がるようなこと。ムキになってやり合えば、ケンカになってしまい、関係も悪くなる。正しさを競って、相手をやり込めることができたとしても、何の得もない。サッとよけることだ
「自分の方がすごいんだ」とか「私のがもっと知っている」と競うのは、傍から見ていて見苦しい。人間が「小さい」とみられてしまう。そして、人としての器の大きさが問われる。
人と話をしていて、自分の方が多くしゃべってしまう、というのも同じ。人の話をじっと黙って聞いている、出しゃばらないし、静かに控えている、ということは人間関係にとって、時に、とても大事なこと。

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『禅的老い方』

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境野勝悟臨済宗の僧、翠厳(すいがん)禅師
「我心(がしん)を忘ずるは、即(すなわち)心仏となる」。

「我心」とは、自分だけの利益ばかりを考える心だ。自分だけが得しよう、自分だけが豊かになろうと…。すると、どうしても、日常生活すべてが、自己中心的となる。なにかを話すにしても、自分の考えでしか、人と話せない。相手の意見が、まったく、読めない。「私は、人のためばかり思っている」なんて言っているが、じつは、自分だけの考えで、自分のエゴで、人のためと思っているだけだ。
相手が、「いい」と思っていることを、応援して、手助けしてやる。そこではじめて「人のため」の行動が、とれる。

老いて注意する点は、ただひとつ。自己中心の考えや、自分の考えだけによる取捨選択の、いっさいの行動を捨て去ることだ。
けっして、難しいことじゃない。こっちの意見を言う前に、相手の考えをよく聞いてやる。「こうしろ」という前に、「こうしてほしい」と言われたら、誠心誠意尽くしてさしあげることだ。少なくとも、禅的に生きたいなら、ここが、肝心かなめの点だ。

「自分のためにやる」「自分が得するためにやる」若いうちは、それでいい。が、老いてきたら、得るものは、決まってくる。得ようと思ったって、かぎりがある。

禅的老い方の基本は、第一に「他利(たり)」である。もし、禅的に老いたいなら、「自分のため」は、後まわし。相手がよくなるように、相手が喜ぶように、相手の考えや趣向をよく理解したうえで、「この人のため」に行動を開始する。その修練を徹底的に実践する。
じつは、そのことが、いちばん、自分のためにもなる。なかなかできない。それは、分かりきっている。できなくても、できなくても、つづけていく。

例えば…。若い人の意見を、よく聞く、聞く、聞く…。
オーソリティの意見ではない。
学者の意見でもない。
名高い評論家の意見でもない。
若い人だ。

若い人の意見をひざまずいて、合掌して聞く、聞く、聞く…。
嫌なことだ。面白くないことだ。
若い人の意見を聞いているうち、「なにっ。オレを誰だと思っているんだ!なめるな!」という気持ちになるのは、よく、分かる。が、そこが、こらえどころだ。ガマンにガマンをして、「うむ。なるほど、よく分かった」…と。

若い人の意見どおりに、行動しなくてもいい。ただ、「分かった」と、まず、しっかりと、その意見を誠実に認めてあげることだ。若い人の意見を、「なるほど、いいことを言うね」と、素直に受け入れて、「参考にさせてもらうよ。ありがとう」と、もし、言えるような自分になったら、老後の人生は、パッと開ける。老後すべての生活に、春が、来る。花が、咲く。

世界に類をみない革命、明治維新を成し遂げたのは20代や30代の若者たちだ。しかし、忘れていけないのは、その裏に、彼らを認めたり、応援した、年長者や老人たちがいた。どんな改革でも、実力や権力のある年長者や老人たちが本気になって止めたら、その改革は一歩も進まない。昨今の大企業がバタバタとダメになっていく裏には、こういう現象がある。
だからこそ、年長者や老人は、「若者を応援する人」でなければならない。特に、変化の激しい現代はそれが必要。応援するには、自分も勉強して、その問題の本質をある程度わかっていなければならない。
つまり、新しい情報や、考え方を受け入れる好奇心と柔軟性が必要。若者とつき合うには、魅力がなければならない。頑固一徹で、誰の話も聞かず、昔話ばかりしているような老人には誰も会おうとはしない。

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『もうひとつの幸せ論』

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小林正観

「輪廻転生」は「義務である」

「魂」は生まれ変わりを重ねながら成長していきますが、「魂」が成長できるのは、「肉体を持ったときだけ」。なぜか。「魂」だけで過ごしているときは、「事件」が起きないからです。
「魂」は、300年~400年に一度、肉体を持って生まれ変わりますが、肉体がある分、さまざまな制約や事件にさらされます。「食べなくっちゃいけない」「飲まなくっちゃいけない」「お風呂に入らなくっちゃいけない」「トイレに行かなくちゃいけない」「寝なくちゃいけない」。「上司に怒られる」のも、「恋愛」ができるのも、「夫婦喧嘩をする」のも、「親子喧嘩をする」のも、肉体があってこそ。
「魂」だけの状態であれば、制約も事件もなく、とても「ラクな状態」で過ごせますが、そのかわり、まったく「成長」しません。「魂の成長」には、事故、病気、災難などが必要です。病気によって優しさを知り、事故に遭って謙虚さを知る。
「魂」は自ら「シナリオ」を書いて、さまざまな事故・病気・災難を設定しています。それもすべて、「魂の成長」のためなのです。
「魂」を成長・進化させる方法とは、目の前で起こる一つひとつの現象に対して、つべこべ愚痴を言わず、「感謝」を持ってとらえること。
ある現象に対して、「不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句」を言うのは「初期の段階(マイナスの段階)」です。その後、マイナスから「ゼロになる段階」があり、その先に「嬉しい、楽しい、幸せと思う段階」があります。この高みに登り、あらゆる現象について「ありがたい」と思えるようになったら、「魂」が大きな成長を遂げています。

■『「病気の境遇に処しては、病気を楽しむということにならなければ生きて居ても何の面白みもない」歌人・俳人、正岡子規
若くして結核を患った正岡子規は、「病気を楽しむ」と受け止め、死の直前まで創作活動を続けていました』病気になって、「この程度ですんでよかった、ありがたい」とか「早めにわかってよかった、ツイている」と、「幸せ」や「感謝」の気持ちで受け止める人がいる。反対に、「ひどい目にあった」とか「ツイてない」と愚痴を言ったり、嘆く人もいる。
小林正観さんは、病気にしても、困難にしても、どんな現象も「中立」でありニュートラルだ。つまり、「幸せ」だとか、「不幸せ」と、とらえる自分がいるだけ。本人のとらえ方の問題。

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『今やらずして、いつできる』

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ジム・ドノヴァン

ある人が最近、「いやあ、そんなことをするには私はもう年をとりすぎているよ」と言った。こういう言葉を聞くと私は悲しくなる。以下の事実について、あなたはどう思うだろうか。

● ヴェルディは76歳で「アベマリア」を作曲した。
● マーサ・グラハムは75歳まで演技を続け、95歳のときに180作目となる作品を演出した。
● ミケランジェロは88歳で死ぬ6日前にピエタ像を彫っていた。
● 作家のマリオン・ハートは54歳で飛行機の操縦法を学び、大西洋を横断する単独無着陸飛行を全部で7回おこなった。最後の飛行をおこなったのは1976年だったが、そのとき彼女は84歳だった。
● 画家のグランマ・モーゼスは80歳にして初の個展を開いた。

もしあなたがかねてから念願のことをするのに自分が年をとりすぎていると思うなら、考え直してそれを実行に移そう。「この世のすべての悲しい言葉の中で、最も悲しいのは『しておけばよかった』である」と、ある高名な詩人は言った。あなたがずっとしたいと思ってきたことで、先延ばししてきたことは何だろうか?自問しよう。「いまでなければ、いつするのか?」と。

■ウォリー・エイモス(米国の有名な起業家)が講演を終えると、ひとりの女性が歩み寄って「もし私がこれからロースクールに行ったりしたら、卒業するときには55歳になってしまいます」と言った。エイモスはこう問い返した。「もし行かなかったら、何歳になるのですか?」

■100以上の国と地域に、36,000以上の店舗を出店しているのがマクドナルド。創業者はレイクロックというが、彼は高校を中退し、52歳までしがないミルクセーキミキサーのセールスマンだった。そして、59歳のときに立ちあげたのが、マクドナルドだった。

■120の国や地域に、18,000店以上があるのがケンタッキーフライドチキン。カーネルサンダースは、いくつもの事業の失敗を乗り越え、65歳のときにケンタッキーフライドチキンを創業し、73歳のときには600店まで拡大したという。

■100歳の時に、30年分の木材(彫刻の材料)を買い込んだことで有名な、 平櫛田中という彫刻家がいる。「60、70は鼻たれ小僧、男ざかりは100から100から、わしもこれからこれから」「実践実践また実践、挑戦挑戦また挑戦、修練修練また修練。やってやれないことはない。やらずにできるわけがない。今やらずしていつできる。わしがやらねば誰がやる」という有名な言葉を残している。

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『期待値を下げる時』

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本田健

自分や相手に「失望」するときがあります。事前に「こうできるかも」という期待が頭の中にあり、それが実際に実現しなかったとき、人は落胆し、失望する。人間関係では「期待」という感情が必ず出てきます。
「部下は残業してくれるはずだ」と思っているのに、してくれない。あるいは、「これだけの結果を出してくれるはずだ」と思っているのに、出してくれない。「優しい言葉をかけてくれるはずだ」と思っていたら、かえって叱られた…。

期待した分だけ、人間は失望するようにできている。期待と失望は、必ずセットでやってっくるのです。
たとえば、契約が十件取れると思っていたのに、七件しか取れなかった。あるいは、あの人とつきあいたいと思ったけれども、相手が別人のことを好きでふられてしまった。そんなことで、人は落胆します。
「うまくいったかもしれないのに」と思う気持ちが、実は自分をガッカリさせている。このガッカリから解放されるためには、どうしたらいいでしょうか。

一つの方法は、「考え方の回路」を変えることです。たとえば、どうしても食べたいものが手に入らなかったとき、「ひょっとしたら食べなくてよかったんじゃないか。食べていたらお腹をこわしていたかもしれない」と思えば、ガッカリしなくてすむ。全体的に見て人生がうまくいっているにもかかわらず、何かでほんの少し「待った」がかかったからといって、そこで失望を感じるのは、あまりにもバカバカしすぎる。
失望する代わりに、「いったい、これはどういうことかな」と好奇心を持って考えるセンスがあれば、いたずらに落胆しないですみます。

今の人間関係に変な期待を持ちそうになったら、その都度、手放してみましょう。そうやって、上手に期待を手放す練習をしておくと、ガッカリすることも減ります。

究極の「期待値を下げる」方法がある。それは、「生きているだけでありがたい」と思うこと。
たとえば、自分の子どもが、毎回遅刻して、成績が悪く進級が危なくて、追試のテストまでさぼったなどと言う場合、たいていの親は、怒り心頭で怒りまくってしまう。しかし、もし仮に、その子どもが交通事故にあって瀕死の重傷を負ったとしたら、「他のことはもうどうでもいい、生きていてくれるだけでありがたい」と思うだろう。
これは、子どもに対してだけでなく、自分においても同じことが言える。どんなに大きな失敗をしてしまったとしても、たとえ、会社が倒産してしまったり、自己破産してしまったとしても、「生きているだけでありがたい」。
それは、同様に、「この時代に、日本に生まれただけでありがたい」し、「三度三度の食事ができるだけでありがたい」し、「眠る家があるだけでありがたい」。
これは今、戦争状態にある国と比べてみるとよくわかる。

「期待と失望はセットでやってくる」ときに、期待値を下げることも大事だ。

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『好事魔多し』

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浜松医科大学名誉教授、高田明

和禅の書に、「好事も無きにしかず」とか「無事是貴人」などと書かれているのをよく見ます。一体、なぜ良いこともない方がよいのでしょうか。これは、「楽中苦あり、苦中楽あり」という因縁の法則にも関係しています。
若い時には不運に遭っても、それは借金を払ったのだ、これからうまくいくのだと思い、努力することも尊いと思えます。また、成功が不運に通ずるということを身をもって体験することもよいでしょう。
しかし、何か良いことが起こるということは、不幸が待ち構えているということです。ない方がよいのです。その方が心豊かに生きられるのです。

■修養書を多く書かれ、今でも書店にその著作が多く並んでいて、その影響を受けた人が社会の上層部にたくさんいるという方がおられました。この方も晩年は精神が錯乱し、最終的には座敷牢のようなところで亡くなられた。これを知った方々は「どのような人が偉いというのか分からなくなった」と嘆いていました。

別の禅の大家は、激しい修行を指導することで有名でした。ご自身も剣の道を究めようとされ、その指導もされました。ところが、そのような方でも晩年の十年くらいは脳卒中のために四肢麻痺で、口もきけない日々を過ごすことになった。剣で鍛えた体はなかなか衰えず、かえって長く苦しむ結果になったのです。
たしかに、このような方々の本を読むことでやる気が湧き、修行に進むことを決意した方も多くいると思います。そのような点では徳を積んでいるのでしょう。しかし、この事例はそのような仕事上、あるいは本人の修業上のことで徳を積むだけでは充分でないことを示しています。このような方々も、身を慎み、大言せず、他人の批判をしないなどという日々の努力が必要なのです。

■「好事も無きにしかず」とは、良き事や目出たいことを否定するわけでなない。良き事や目出たいことに執着するな、ということ。
たとえば、宝くじで大金を当てた人のほとんどが不幸になっているという事実がある。周りからの嫉妬を受けたり、浪費癖がついてしまったり、身を持ち崩してしまったり…。だから、安易な好事は無いほうがいい。
本を書いたり、講師になったり、人を指導する立場になったりすると、どうしてもそこに慢心が生まれやすい。偉そうになってしまう。
順調なときほど、落とし穴があり、ひっかけ問題もある。すなわち、「好事魔多し」。

■好事の時にあっては、 幸田露伴 の言う、「惜福、分福、植福」の三福が有効だ。
惜福とは、福を使い尽くさないこと、惜しむこと。大事に使うこと。
分福とは、まわりのみんなに福を分けること。
植福とは、福の種をまき、その木を植え、子孫(後世)にその果実を残すこと。いくつになっても身を慎み、徳積みをしよう。

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『思い込みを超える』

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精神科医、斎藤茂太

サーカスの象は、小さい頃に頑丈な鎖でつながれる。子象は鎖をひっぱって逃げようとするが、まだ小さいので鎖は切れない。そのうち、逃げられないと観念してあばれるのをやめてしまう。
さて、この子象は年月がたつうちに大人の象になる。もう、つないでいる鎖など簡単に切れる力をもっている。ところが、象は決して鎖を切って逃げようとはしない。象は、鎖が切れなかった経験はあるが、鎖が切れた経験はない。このため「鎖は切れない」という観念が植えつけられてしまったのである。

人間も、ある部分この象と同じだ。一度、失敗したことを「これは自分にできないことなのだ」と思い込む。「苦手意識」を自分で植えつけてしまう。そして、二度と同じことに挑戦しようとはしなくなる。
しかし、考えてみてほしい。人間も、子象と同じで、日々成長しているのである。子どものころやってみてできなかったことでも、今やったら簡単にできることなど、たくさんあるはずなのだ。
いつまでも「これはダメだ」と思っていたら、本当にいつまでもできるようにはならない。「そこまで」である。しかし、何度でも挑戦すれば、すこしずつでも状況は変わってくる。ダメだと思っていたことが、あまりにすんなりできてびっくりすることもあるだろう。今までの苦手意識が、突然、自信に変わることもあるはずである。ぜひ、懲りずに挑戦してほしい。

作家の北杜夫がこんな話を書いている。
北杜夫は私の弟だ。まだ、小説家としてデビューする前に自費出版した『幽霊』という作品を、母、輝子が、茂吉の本を出している関係で知り合いの出版社の編集者に見せにいった。ところが、その人は「優等生の作文。どこといってとりえがない」と突っ返した。母は「もう小説なんて書くのはやめなさい」と弟に忠告した。
しかし、弟はあきらめなかった。弟には、どんな優秀な編集者だって、いい悪いの判断は、あとになってみなければわからないという自負があった、という。結局、弟が信じたとおり、この作品は別の出版社の編集者の目にとまり評価を得た。そして小説家への道を歩み始めたのである。

今、うまくいかなくても、マイナスの結論を出す必要はない。できることをまずやって、できなかったことの評価は保留にしておこう。そしてそのうちに、保留にしておいたことを、もう一度やってみよう。挑戦すると、きっと何かが変わるのである。

「蚤(のみ)とコップ」
蚤は体長2ミリくらいだが、30センチもジャンプすることができる。自分の身長の約150倍だ。それほど跳躍力のある蚤を、高さ5、6センチのコップの中に入れてやると、最初はピョンビョンと跳ねて外に出ようとするが、そのたびにガラスの天井(コップ)にぶつかってしまう。しばらくたって、コップをはずしても、コップの高さより高くジャンプすることができなくなってしまうという。しかし、その跳べなくなった蚤に、新たな「跳べる蚤」を仲間として加えてやると、それを見てまた跳べるようになるのだそうだ。
「昔やったことがあるができなかった」「前はこういう理由でできなかった」…。一度や二度失敗したくらいであきらめていたら、世界の発明や発見はこの世に生まれなかった。まったく同じようなやり方でも、時間や、場所や、器具等、やり方や手順を変えるだけでうまくいくことは多い。結局はあきらめないことだ。しつこく、しつこく何度でも鈍になってバカみたいに挑戦する。「もう一度やってみよう」さらにもう一回の挑戦が成功につながる。

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