「話がわかりやすい人」と「わかりづらい人」の決定的な差とは

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本多正識:漫才作家・吉本興業NSC講師

「話がわかりやすい人」と「話がわかりづらい人」は何が違うのでしょうか。実はその違いは1つしかありません。正解は「相手に合わせた話し方ができているかどうか」です。
「単純なことを」と思うかもしれませんが、長いことお笑いの仕事をしていて今でも大事だと感じることの1つです。

お笑いを例に出しましょう。お笑い芸人になると最初は舞台で漫才やコントを披露するところからはじまります。大阪を中心に幾つかの舞台をまわることになるのですが、最初に気がつくことがあります。それは「同じお笑いファンでも劇場によって客層が違う」ということです。みんな同じお笑いファンなのに、ウケるポイントが違ったり、空気が冷たかったりするのです。

加えて、もう少し芸を磨いていくとさらに新しいことに気がつきます。それは同じ劇場でも曜日や時間帯が違うと客層が違うということです。そのため披露するネタは同じだったとしてもただそれをこなすだけでは笑いが起きず、ウケたあとの舞台でスベることも起こり得るのです。つまり、話す内容や披露するネタは同じでも、話し方や伝え方だけで面白くもつまらなくもなるということです。

ですから自分が今相手をしている人はどんな人なのか考えながら話すことが何よりも大事なのです。子ども向けなのか大人向けなのかというのもありますし、時間帯も大事です。相手がどんな考え方なのかなど、とにかく相手に合わせて自分の話を伝えることではじめて話は伝わります。

話題を戻しましょう。ですから、「話がわかりやすい人」というのは言葉選びであったり、声のトーン、タイミングなど、基本的に聞いている側のことを考えて話をしているのに対し、「話がわかりづらい人」は自分の言いたいことを言いたいように言っているだけなのです。
たとえば、ミスした直後で、バタバタしているときに説教をされたら、内容が良かったとしてもほとんどの人が「言われなくても悪いと思っているのに」と感じるのではないでしょうか。逆に少し落ち着いたタイミングで諭すように説教をされたら「たしかに、こういうところは改善できるよな」と自然と頭のなかに内容が入ってくるかと思います。

言っていることや話の内容はいいのに、話し方の部分で損をしてしまってはもったいないですから、ぜひ意識してみてください。

エンジンオイル、メーカー、OEM仲間の経営塾より

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『修身教授録』森信三を読んで

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経営コンサルタント・小宮一慶

森信三先生は教える側の心得として「人を教えようとするよりも、まず自ら学ばねばならぬ」と言われていますが、まさにそのとおりだと思います。私もお教えする立場ですが、やっぱり自分自身が常に高まっていかないと、人にものを教えることなどできません。

また、読書は「心の食物」であると、実にうまい表現をしておられます。食事を欠けば肉体を養えないのと同じように、思索をする人にとって読書以上に優れた心の養分はないと。

その他にも勉強になる言葉がいろいろありましたが、私がよく引用させてもらうのは次の言葉です。
「人生は、ただ一回のマラソン競走みたいなものです。勝敗の決は一生にただ一回人生の終わりにあるだけです。しかしマラソン競走と考えている間は、まだ心にゆるみが出ます。人生が、五十メートルの短距離競走だと分かってくると、人間も凄味が加わってくるんですが  」
人生は長丁場でマラソンと似たところがありますが、しかしマラソンだとばかり思っていては、ここぞという時に全力を出し損ねることがある。普段からこれ以上はできないというくらい全力でぶつかっていると、能力は僅かずつでも上がっていくもので、特に若いうちにその習慣を身につけた人は強いと私は思います。

また、いまの自分の心に響いたのが、「真の誠とは、その時その時の自己の『精一杯』を尽くしながら、しかも常にその足らざることを歎くものでなくてはならぬ」という言葉です。
目一杯力を尽くしながらも、自分はまだまだ不足であると感じ、どこまでも精進を重ねる。本書には「目の前のことを精一杯やる」という記述がよく出てきますが、私もそこに強く共感するとともに、それが即ち「誠」ということなんだなと教わりました。

エンジンオイル、メーカー、OEM仲間の経営塾より

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『残酷すぎる成功法則』

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エリック・バーカー

ウィンストン・チャーチルはイギリスの首相になるはずがない男だった。“すべて完璧にこなす”政治家とほど遠い彼が首相に選ばれたことは、衝撃的な出来事だった。たしかに切れ者ではあるが、その一方で偏執的で、何をしでかすかわからない危険人物というのがもっぱらの世評だったからだ。

チャーチルは26歳で英国議会議員になり、政界で順調に頭角を現したが、次第に国家の要職には適さない人物だと見られるようになった。60代を迎えた1930年代ともなると、その政治的キャリアは事実上終わっていた。いろいろな意味で、チャーチルは前任者のネヴィル・チェンバレンの引き立て役に甘んじていた。チェンバレンといえばすべてを完璧にこなす、まさに典型的なイギリス首相だったからだ。

イギリス人は、首相をうかつに選んだりはしない。たとえばアメリカの大統領と比べて、歴代の首相は概して年長で、適正を厳しく吟味されて選ばれるのが通例だ。異例の早さで権力の座に上りつめたジョン・メジャーでさえ、アメリカ大統領の多くに比べ、首相職への備えができていた。

チャーチルは、異端の政治家だった。愛国心に満ち溢れ、イギリスへの潜在脅威に対してパラノイア的な防衛意識を貫いた。ガンジーさえも危険視し、インドの自治を求める平和的な運動にも猛反対した。チャーチルは自国を脅かすあらゆる脅威に声高に騒ぎたてるチキン・リトル(臆病者)だったが、まさにその難点ゆえに、歴史上最も尊敬される指導者の一人となった。

チャーチルはただ独り、早い段階からヒトラーの本質を見抜き、脅威と認識していた。一方チェンバレンは、ヒトラーは「約束をしたら、それを守ると信じられる男」という考えで凝り固まっていたので、宥和政策こそナチスの台頭を抑える方策だと確信していた。ここぞという重大な局面で、チャーチルのパラノイアが本領を発揮したといえる。
いじめっ子に弁当代を渡したら最後、もっと巻き上げられるだけだ、奴の鼻を一発ぶん殴らなければならない、と見抜いていたのだから。

チャーチルの熱狂的な国防意識…危く彼の政治生命を滅ぼしかけた…は、第二次世界大戦前夜のイギリスになくてはならないものだった。そして幸運にも国民は、手遅れになる前にそのことに気づいた。

偉大なリーダーの条件は何だろうか。
ハーバード大学ビジネススクールのムクンダは、それまでの研究結果に一貫性がなかった理由が、リーダーが根本的に異なる二つのタイプに分かれるからだと分析した。
第一のタイプは、チェンバレンのように政治家になる正規のコースで昇進を重ね、定石を踏んでものごとに対応し、周囲の期待に応える「ふるいにかけられた」リーダーだ。
第二のタイプは、正規のコースを経ずに指導者になった「ふるいにかけられていない」リーダーで、たとえば、会社員を経ずに起業した起業家、前大統領の辞任や暗殺により突然大統領職に就いた元副大統領、あるいはリンカーンのように予想外の状況下でリーダーになった者などを指す。

「ふるいにかけられた」リーダーはトップの座に就くまでに十分に審査されてきているので、常識的で、伝統的に承認されてきた決定をくだす。手法が常套的なので、個々のリーダー間に大きな差異は見られない。
しかし、「ふるいにかけられていない」リーダーは、システムによる審査を経てきていなので、過去に“承認済みの”決定をくだすとは限らない…多くの者は、そもそも過去に承認された決定すら知らない。“バックウラウンド”が異なるので、予測不可能なことをする場合もある。その反面、彼らは変化や変革をもたらす。ルールを度外視して行動するので、自ら率いる組織自体を壊す場合もある。だがなかには、少数派だが、組織の悪しき信念体系や硬直性を打破し、大改革を成し遂げる偉大なリーダーもいる。

「ふるいにかけられた」リーダーはことを荒立てずに済まそうとする。「ふるいにかけられていない」リーダーは逆で、ことを荒立てずにはいられない。システムや制度を破壊することもしばしばしばだ。
「ふるいにかけられていない」リーダーはなぜインパクトが大きいのか?それはほかのリーダーと決定的に異なるユニークな資質を持つからだ。ユニークな資質とは、日ごろはネガティブな性質、欠点だと捉えられていながら、ある特殊な状況下で強みになるものだ。
そうした資質は、たとえばチャーチルの偏執的な国防意識のように、本来は毒でありながら、ある状況下では本人の仕事ぶりを飛躍的に高めてくれるカンフル剤になる。ムクンダはそれを「増強装置(インテンシファイア)」と名づけた。

この概念こそが、あなたの最大の弱点を最大の強みに変えてくれる秘訣なのだ。古来よりの歴史をひもとくと、世の中が引っくり返るような大変化のときには、通常の指導者やリーダーでは対応できない。ある種の狂気や、パラノイア(偏執症)を持った人が危機を救っている。もちろん、その資質ゆえに、状況を悪化させたり、ダメにしてしまっている人もいる。

現代は、ITによる超大変革の時。通常の対応では、ほとんどの会社も、組織も生き残れない。政治も同じだ。いまこそ、異端の人を認めなければならない時が来たのかもしれない。

エンジンオイル、メーカー、OEM仲間の経営塾より

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