『買う理由は雰囲気が9割』

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福田晃一 これまで時代を大きく動かしてきたのはマスメディアです。テレビ、ラジオ、新聞、雑誌を経由して、マス広告という形で世間にはモノやサービスの情報がもたらされていきました。
たとえば、この本を大々的に売りたいなら、ほんのつい最近まではマス広告をどかんと打てばよかったわけです。『福田晃一の最新刊 多方面から大絶賛! あなたのビジネスを劇的に変える 必読の1冊!』などと派手に広告することで、「この本はすごいらしいぞ!」とみなが手に取ってくれました。

しかし今は、マス広告に対する消費者の反応が大きく変わりました。「福田とやらの本、最近CMをバンバン打ってるけど、都合のいいことだけ言っているんじゃないのか?」「最近よくテレビで取り上げられているけれど、どうせ仕込みじゃないのか?」などと、世間が広告やメディア情報を信用しなくなってきているのです。

インターネットやソーシャルメディアの普及によって、広告の効果も、そのあり方もがらりと変わってしまいました。
マスメディアの情報でなく、人々が自分で「正しい」と思う情報だけを選ぶようになったのです。ニュースだけでなく、美味しいレストランやおしゃれなカフェ、ファッションやコスメ、本や音楽、映画などについても、口コミやレビュー、評価の☆の数を見て店を選んだり、商品の購入を決めています。

残念ながら「この商品は素晴らしい」とか、「感動の大作」などといった言葉に人々は踊らされません。むしろ一般人のリアルな口コミこそが、人々の「買うか買わないか」の決め手になっているのです。
インターネットやソーシャルメディアに慣れ親しんだ若年層ほど、その傾向は強くなります。若者向けの商品やサービスを展開しているベンチャー企業などが、一気に台頭するのは、このソーシャルメディア時代の波をうまく捉え、流れに乗っているからでしょう。

簡潔に言ってしまえば、今、モノが売れるか否かの決め手となるのは「誰かの声」なのです。ただし、誰でもいいわけではありません。自分の知っている人、自分の信頼している人たちが話題にしていることに人々は大きく影響されます。ソーシャルメディア上での身近な知り合いからの口コミ情報を何よりも信用します。この口コミ情報をどのように活用するかが、今、商品が「売れる」「売れない」の分岐点になっているのです。

エンジンオイル、メーカー、OEM仲間の経営塾より

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『「古本大学講義」』閑谷学校にて

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安岡正篤 

先生は、東洋には「四部の学」というものがあると説明され、概略、次のような話をされています。「四部の学」とは「経」「史」「子」「集」。

このうち、「子」は人生に独特の観察と感化力を持つすぐれた人物の著書のことをいい、これは「経」に従属させるべきものだといわれています。
「集」は詩文のことです。従って、東洋の教学は「経」「史」「集(詩文)」の三つに分けて考えたほうがよい、といわれています。これは私たちが学問修養をしていく上において非常に意義深い分類法であり、こういう分類法は東洋独特のもので、西洋の学問にはみられない。

なぜ、これが意義深いか。まず、「経学」です。「経学」というのは、人間はいかに生くべきかを研究する学問であり、我われの生き方の信念を養い、生活の指導力となる学問のことだ。即ち、人間力を養い、人間性を高める学問ですね。今日でいう「人間学」の根幹をなすものです。

これに対して、「我われ人間はいかに生きてきたか」「かく生きた故にかくなったから、人間はかくあらねばならない」というふうに、歴史を照らして、人間の生き方・あり方を教えているのが「史」、即ち歴史です。つまり、史学は経学を実証するものです。

「経」を離れて、「史」なく、「経」と「史」の学を兼ね修めて初めて人は知行合一的に、全人格を練っていく。
次に「集」ですが、人間の情緒・情操を養っていくのが詩文です。人は詩文を読むことによって感動し、行動にかりたてられます。

そこで、私たちが本当に自己を磨いていくには、「経」と「史」と「詩文」の三つを深めていかなければならない。この三方面から終始自分を養ってゆけば、明るい洗練された人格が光輝を増していく…。

この三部はいずれも大事ですが、根幹はやはり「経学」です。「我われの生き方の信念を養い、生活の指導力となる」…そういう学びを深めていきたいものです。後年、安岡正篤先生は、古典と歴史と人物の研究…これなくして人間の見識は生まれてこないと言われました。

「歴史はくり返す。たいていのことは古典の中にある。何千年もたっているのに、人間そのものの根本は少しも変わっていない。自分が創意工夫し、真理を発見したと思っているが、それは大変な錯覚で、すでに古典にのっていることを知らないのだ」(安岡正篤)

我々が古典を学ぶ理由はここにある。現在起こっている事象 を解きほぐし、未来のことを予測するには古典の勉強が一番だ。人間としての根本は少しも変わっていないからだ。また、「愚直で、少々頭も悪く、小才も利かぬ、そんな人間の方が、根が真面目なだけに、修養努力して大人物になることが多い 」
(安岡正篤)

我々が人物学を学ぶ理由がここにある。中国の古典「呻吟語」中でも、そのことが述べられている。
「深沈厚重(しんちんこうじゅう)是(これ)第一等
磊落豪遊(らいらくごうゆう) 是第二等
聡明才弁(そうめいさいべん) 是第三等
どっしりと落ちついて深みのある人物が第一等。
細かいところにこだわらないような豪放磊落な人間は第二等。
そして、目から鼻に抜けるように頭が切れて弁の立つ「聡明才弁」の人は第三等だという。

また、「徳とは無類の明るさのことである」(安岡正篤)無類の明るさは「集」、すなわち、 人間の情緒・情操によってつくられる。

エンジンオイル、メーカー、OEM仲間の経営塾より

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「娘の霊にささぐ」

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東京家庭教育研究所を創設した小林謙策

小林さんが家庭における子どもの教育がいかに大切かを身にしみて感じたのは昭和30年6月、ただ一人の娘に突然、自殺されたときからです。小林さんは長野で中学校の校長をしていました。人さまの大切な子どもをあずかって教育しなければならない立場の者が、自分の娘の教育さえ満足にできなかったのはなぜか。
19年間の娘に対する教育のどこが間違っていたのか。平和で楽しかったはずの家庭に突然おそった悲しみ、苦しみが厳しく小林さんを反省させました。

「私は家庭における子どもの育て方に大変な間違いを犯しておりました」と小林さんはいいます。
自身が勝気で負けず嫌いだったから、娘に対しても、小さい時から「えらくなれ」といって育ててきた。大きくなると、さらにその上に「人よりえらくなれ」といった。
「娘は小学校、中学校、高等学校までは、自分の思い通りに伸びていったが、東京の大学に行ってからは、そうはいきませんでした。あらゆる努力をしても、自分よりすぐれているものが幾多あることを知ったとき、もはやわが人生はこれまでと、生きる望みを失い、新宿発小田急行の急行電車に投身自殺をしてしまったのです」

遺された手紙には「両親の期待にそうことができなくなりました。人生を逃避することは卑怯ですが、いまの私にはこれよりほかに道はありません」と書かれ、さらに、「お母さん、ほんとうにお世話さまでした。
いま私はお母さんに一目会いたい。お母さんの胸に飛びつきたい。お母さん、さようなら」と書いてありました。「それを読んだ妻は気も狂わんばかりに子どもの名前を呼び続け、たとえ一時間でもよい、この手で看病してやりたかった…と泣きわめくのでした」

小林さんはいいます。考えてみれば、子どもは順調に成長してゆけば、誰でも「えらくなりたい」と思うもの。這えば立ちたくなり、立てば歩きたくなり、歩けば飛びたくなる。これが子どもの自然の姿です。子どもは無限の可能性を持って伸びようとしています。
「それなのに自分は愚かにも娘に、『人よりえらくなれ』といい続けてきた。“自分の最善をつくしなさい”だけで、娘は十分伸びることができたはずです。私は娘の死によって、家庭教育の重要性を痛感いたしました。

坂村真民『心に響く言葉』
「小さい花でいいのだ
人にほめられるような大きな美しい花ではなく
誰からも足をとめて見られなくてもいい
本当の自分自身の花を咲かせたらいいのだ
それを神さま仏さまに見てもらえればいいのだ」

心理学の交流分析に「スタンプ収集」という言葉がある。本当は怒りたいのに、我慢してニコニコしてしまったり、拒否したいのに、笑って「やりますよ」などと返事をしてしまったりと、大小の様々な、嫌な感情を押し殺して、ため込んでしまうことを言う。
ためこみやすいタイプは、親の言うことを反発もしないでよく聞く、「いい子」だと言われる子どもに多い。スタンプがある時に満杯になると、一気に感情が爆発する。怒りや暴力として外に出たり、あるいは自分を傷つけたり、引きこもったりと内に向く状態である。キレる、というのもそうだ。あんな従順で素直だった子どもが、なぜ金属バットで暴れたのか、という話だ。
親が子どもに期待するのは当たり前の感情だ。しかし、子どもが嫌がっているのに、そのサインを見落として上から押さえつけ続けると、スタンプ収集になってしまう。反発できる子どもはいいが、そうでない心優しい子どもはなんとかして、親の期待にこたえようとする。これは、子どもだけの話ではなく、大人でも同じだ。

嫌なものは断ったり、それを受け取らない勇気も必要だ。我慢してやりつづけると、やがて我慢の限界がくる。そして、時には心を休ませることも大切だ。
花には大きな花もあれば、小さな花もあり、名も知れぬ雑草として咲く花もある。
しかし、どんな花でも、花は咲くだけで美しい。無理して大きな花を咲かせようとするのではなく、小さくてもいいから自分の花を、せい一杯咲かせてあげるのが良い。

エンジンオイル、メーカー、OEM仲間の経営塾より

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