『望みはかなう きっとよくなる1』

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筑波大学名誉教授、村上和雄

人と話をしていると、あれこれできない理由を言い出す人がいます。こういう条件だからできない、こういう環境だから不可能だと、できない理由を並べ立てるのですが、こうすればできるのではないか、こんな方法があるのではないかと、できるようにするためにはどうしたらいいかを考える方がいいと思います。

できない理由を探す人には、2つの特徴があります。
ひとつは、余分な知識がある人です。余分なことを知っているから、これはできないとハナから決め込んでしまいます。
もうひとつは、自分の中に限界を設けてしまう人です。自分には才能がない、成功する可能性がないと限界を設けてしまって、チャレンジすることをやめてしまいます。

しかし、本当にいい仕事をしている人や業績をあげている人は、できない理由を探す前に、まず動きます。限界を突き抜けるためにどうしたらいいかを必死で考え、それを実践します。できないと思うのではなく、できると信じるのです。「できない」を「できる」にするためには、誰にでも未知の可能性が秘められているということを信じることです。その可能性のスイッチをオンにすることができれば、誰もが自分なりのゴールに近づくことができるのです。

そのためには、人に教えを請うこともひとつですし、ITなどの新しい技術を積極的に活用することもひとつの方法です。
それが問題解決のヒントになるし、新しい発想や見かたをもたらしてくれます。私たち研究者の世界では、新しい実験手法が出てくることが、それまでできないと思っていたことを打破するひとつの有力な手段になります。
それによって、それまで見えなかったものが見えてくるし、測定できなかったものが測定できるようにもなります。直接、問題解決に迫るのではなく、そこに近づくための新しい手法や方法を探ることが、科学の進歩に非常に大きな影響を与えます。
最近のノーベル賞の傾向は、新しい手段の開発に貢献した人に与えられるケースが少なくありません。それによって、これまで無理と思われていた研究が大きくジャンプするからです。

アルコール、除菌、マスクの仲間の経営塾より

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『心の力』

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“村上和雄&玄侑宗久 筑波大名誉教授、村上和雄

笑いの効用を科学的に実証するために、私たちは糖尿病に着目しました。糖尿病の指標となる血糖値は、ほんの少しの血液で簡単に測定ができますし、明白な結果が出ます。また、血糖値が変化した場合、「どの遺伝子のスイッチがオンになっているか」を調べることもできるからです。

実験は糖尿病患者に対して昼食後の40分間に、1日目は医学部教授による「糖尿病に関する講義」を聞いてもらい、2日目は落語を楽しんでもらい、終了後に採血をして血糖値を測定するというものです。講義は当然ながら真剣なもので、笑いはありません。吉本興業と共同で3回実験をして、3回とも漫才や落語を聞いた人のほうが血糖値の上昇が抑えられたという結果になりました。もちろん被験者の人数も条件も限られたものですから、まだ十分に科学的な臨床実験とは言えませんが、今後の研究に向けた貴重な第一歩となったことは間違いありません。

これは余談ですが、実験を大阪でやると困った問題が起こるのです。というのも、大阪のおばちゃんたちは真剣な講義でも笑うんですよ(笑)。だからデータの信憑性が低くなる。地域差や個人差というファクターがありますから、これも非常に難しい問題なんですね。

また、私の友人で、イメージ療法をやっている人がいます。患者に自分の胎児期をイメージさせて、自分が両親に待ち望まれて生まれてきたことを実感させることで、病気を治している人がいるんですよ。その人と、いま共同実験をやっているのですが、そのイメージ療法をやっていると確かにガンが治る場合があるんです。
つまりそのときに、ガン抑制遺伝子のスイッチがオンになるんですよ。これはまさにイメージが物質に影響を及ぼすということであり、意識が遺伝子のスイッチのオンとオフにかかわっているという好例だと思います。

いま分かっていないことを否定するのは、非常に非科学的なんです。分からないことはいっぱいあるし、特に命に関しては、ほとんど分かっていないのですからね。科学の成果が絶対的な真理ではありません。私に言わせれば、科学とは限定つきの真理なんです。遺伝子も物質ですから、意識やイメージが物質である遺伝子のスイッチのオンとオフに影響するのは確実です。それを実証するためにも、私たちはデータを増やしていく必要がある。笑いの研究がその先鞭になれば、と思っています。

エンジンオイル、OEMの仲間の経営塾より

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『非常識のすすめ』

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ひろさちや

70歳になる老僧が、英語の勉強をはじめた。明治のころの話である。「ジズ・イズ・ア・ペン」といった初歩からはじめるのである。いくらなんでも、七十の手習いは遅すぎる。見かねた弟子が、「無理ですよ。およしになれば…」と忠告する。「わしも、今さらやってもものにならんと知っている。しかし、単語の一つでも二つでもおぼえておけば、このつぎ生まれてきたときに楽ができると思うてな…」老僧はそう言ったそうだ。

鈴木正三(しょうさん)といえば、徳川氏の家臣で、家康・秀忠に仕え、関が原の戦、大阪の陣に勲功のあった人だ。彼はのちに出家して、「仁王禅」という独得の禅を提唱した。
その鈴木正三のことばに、「一生に成仏せんと思うべからず」がある。仏道修行というものは、悟りを開いて仏になる。すなわち「成仏」をめざしたものである。
ところが、正三は、この一生のあいだで悟りを開こうと思ってはいけない、と言うのだ。たぶん、“あせり”の心を戒めたものだと思う。

そういえば、子どものころに祖母から聞かされた話がある。あるとき、弁慶と義経が、めし粒をつぶして糊をつくることになった。大量の糊が必要なので、あせった弁慶は大鉄棒でめし粒をかき回す。そんなことをしても、糊はできない。弁慶は失敗した。
一方、義経の方はじっくり型だ。小さな箆(へら)でもって、一粒一粒、たんねんにつぶしていく。遅いようだけれども、結局はそちらのほうが早いのである。企業だってそうだと思う。短期間のあいだに企業を発展、拡大させようとすれば、どこかに無理がかかる。それで失敗するのではなかろうか…
企業の発展を、つねに次代の社員に託す気持ちが必要である。次代、次々代、さらにその次の世代の社員たちが、少しずつ企業を拡大していってくれる。そんな気持ちでいると、皆がゆったりと生きていける。

エンジンオイル、OEMの仲間の経営塾より

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人は「死に時」を自分で選んでいる、と思う訳

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後閑愛実(ごかん・めぐみ)正看護師。BLS(一次救命処置)及びACLS(二次救命処置)インストラクター。看取りコミュニケーター。1000人の看取りに接した

たまにお見舞いに来ては、意識のないお母さんに文句を言っている息子さんがいました。「お母さん、いつまで生きてるんだよ。お母さんの入院費のせいで、俺たちの生活大変なんだからね」私はそれを、「そんなことをよく言うな」と半分あきれながら聞いていました。ですが、その日は、息子さんのかける言葉がいつもと違いました。息子さんはお母さんに向かってこう言ったのです。「母さん、わかったよ。俺たち頑張るから、もう好きなだけ生きていいよ」その夜、お母さんは亡くなりました。それまで病状に全然変化がなかったのに、突然のことでした。

きっとこのお母さんも、それまでは死んでなるものか、と思っていたのかもしれません。でも、この日の息子さんの言葉を聞いて、もういいかなとでも思ったのでしょうか。けれど、この息子さん、悪態をついていたのは、実は逆の意味だったのかもと思うことがあります。人前で優しい言葉をかけるのは気恥ずかしいし、悪態をつけば、もしかして言い返すためにお母さんが起き上がってくるんじゃないかとひそかに期待していたのかもしれない、とも思えるのです。なぜなら、この息子さん、ちょくちょくお見舞いに来ています。それだけで十分、お母さんを気にかけていることが分かります。現実には、お見舞いにも来ないご家族のほうが多かったりするものです。ですから、来るたびにいくら悪態をついていようと、きっとお母さんのことが大好きだったのでしょう。

死ぬ時間さえ、本人が選んでいるのではないかと思うことがあります。長く入院している患者さんなどは、私たちが忙しい時間を避けて亡くなってくれているとしか思えないことがあります。こちらの思い込みにすぎないのかもしれませんが、食事の時間や、朝の排せつケアが重なる忙しい時間帯に亡くなる方は少なく、「絶対、避けてくれたよね」と思うことがあります。長く入院していれば、自然と看護師の動きも分かっているはずだからです。また、患者さんにも、好きな看護師、苦手な看護師がいるものです。夜勤に行って、「看護師の後閑です。今日は夜勤なので、よろしくお願いします」と患者さん一人ひとりに声をかけていくと、「あ、今日はあなたが夜勤なの。よかった」と言ってもらえることもあります。「よかった」と言ってもらえれば、うれしいものです。看護師の間ではよく、こんなことが言われます。「この患者さんは、あの看護師さんが好きだから、亡くなるなら絶対に、この人が夜勤のときだと思う」すると、本当にそうなったりするから不思議なものです。

「死に時」といえば、他にもこんなことがあります。それまで横柄だった患者さんが、これまでとは打って変わって急に優しくなったりすると、「もしかして、そろそろかも」と思ってしまうことがあります。「あの人が、ありがとうって言ったよ」そう看護師の間でうわさになることもあります。
おそらく最期は、いちばん弱っている時期なので、どんな人でも他人の優しさを感じやすくなるものなのでしょう。だから、「ありがとう」と素直に口にしてくれるのかもしれません。ですから、最期まで嫌な感じの人だったという患者さんの記憶が思い当たらないのです。

エンジンオイル、OEMの仲間の経営塾より

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『のんびり生きて 気楽に死のう』

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ひろさちや

若い時は二度ない…と言う。だから、若い時代を大事にせよ、といった意味である。なるほど、その通りである。たしかに若い時は一度しかないが、中年だって、老年だって一度しかないのである。

われわれは若い時代を大事にすべきであるが、同様に中年を大事にすべきであるし、老年を大事にしなければならない。若い時代だけを特別視する必要はないのである。

わたし自身はもうすでに73歳。古希はとっくに過ぎた。だから、ひがんで言っているのではない。わたしは、老年には老年のよさがあると思っている。若いころには味わえなかった人生の喜びと悲しみを、しみじみと噛みしめている最近である。人生のそれぞれの段階には、それぞれに違った人生の「こく」がある。わたしはそう思っている。

わたしたちは、それぞれの段階に特有な人生の喜びと悲しみを味わいながら生きたい。にもかかわらず、どうして若い時代だけが特別視されるのか?私には不思議である。

思うに、人々は若い時代を準備段階と考えているようだ。若い時にしっかりと学問や体験の蓄積をしておかないと、後になって困る。だから、若いうちから遊びほうけてはいけない。と、そんな忠告は、若者に自制と禁欲を呼びかけているのである。
でも、わたしは、それはまちがいだと思う。若い時代に特有の人生の喜び・悲しみを体験しておかないと、中年や老年になって、その段階での人生の喜び・悲しみが味わえない。
若い時代は決して準備段階ではない。若者はそのことを銘記すべきである。

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『捨てちゃえ、捨てちゃえ』

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ひろさちや

あるとき、釈迦はひとりのバラモンからさんざんに罵詈雑言をあびせかけられた。わたしたちは、釈迦は偉い人であって、他人から非難されるようなことはなかった、と思っている。しかし、それは誤解である。

釈迦のような人でも、ときには非難攻撃を受けるのだ。だから、わたしたちが他人から非難攻撃されたとき、その故をもって悲観してはいけない。どんな人だって、他人から悪口を言われ、攻撃されるのだということを、しっかり銘記しておきたい。

問題は、その非難攻撃に対する、こちらの応じ方である。釈迦は、罵詈雑言をあびせるバラモンに向って、こう言った。「バラモンよ、きみのところに客がやって来て、きみがその客に食べ物を出す。しかし、その客がその食べ物を受けなければ、その食べ物は誰のものになるか…」「そりゃあ、もちろん、客人が食事を受けなければ、その食事は主人のものになる」「では、バラモンよ、わたしはきみの罵詈雑言を受けない。だから、その悪口はきみのものだ」

私たちは、この釈迦の態度に学ぶべきだ。もっとも、自分に悪口を言っている相手に、釈迦と同じ言葉を返す必要はない。そんなことをすると、かえって逆効果になり、喧嘩になる。
わたしたちは、釈迦は相手の悪口を受け取らないようにされたのだと知って、自分もまた自分に向けられた非難・悪口を受け取らないようにすればいい。そうすれば、自然に静かになるだろう。そういう解決法がいいと思う。

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『捨てちゃえ、捨てちゃえ』

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ひろさちや

こんな仏教説話がある…。狩猟を趣味とする王さまがいた。政務のあいだをぬって、よく狩猟に出かける。一方、この王さまは仏教の信心に厚い。日ごろから仏教教団に布施し、しばしば聖地への巡礼もする。

この王さまを家臣たちは笑う。仏教の禁じる殺生(せっしょう)をさんざんやっておいて、聖地巡拝(じゅんぱい)はおかしいではないか…という訳だ。
その家臣たちの声が王さまの耳に入った。王さまは家臣を集めて話す。「ここに大きな鍋があって、湯がぐらぐら沸きたっている。中に金塊が入っているが、おまえたちはその金塊を取り出せるか」「できません。火傷(やけど)します」「しかし、わしにはできる。どうするかといえば、冷水をそそいでやるといいのだ。そうすると、熱湯もさめて、手を入れても火傷をしない」
さらに王さまは続ける。「わしは国王であって、武人である。狩猟は武人にとって大事な鍛錬だからやめるわけにはいかん。そこでわしは、罪をつくった熱湯をさますために、聖地への巡拝をするのだ」

わたしたちの職業も同じである。われわれが職業に専念すればするほど、悪行をつくり、他人に迷惑をかけることがある。大事なことは、そのとき、生きていくためにはやむをえないと開き直らずに、素直に「すまない」と詫(わ)びる気持ちを持ち、反面において少しでも宗教心を持つことだ。
ほんの少しでも熱湯の温度を下げるようにすればいいのである。そうすれば、「ほとけ心」という金塊が得られるであろう。

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『いい言葉が、心を掃除する』

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ひろさちや

「極楽百年の修行は穢土(えど)一日の功に及ばず」(報恩抄・日蓮)
極楽浄土で百年間修行をしようとも、この世で一日修行した成果には及ばない。

日蓮は苦で満ちるこの世こそ最上の修業の場であると喝破しました。

アメリカの成功者に、それを体現したような人物がいます。アップルの創業者、スティーブ・ジョブズです。ジョブズの人生は波乱の連続でした。生まれてすぐ養子に出されたり、せっかく受かった大学は半年ほどで中退してしまったり…。しかし、ジョブズは挫折すら糧とする術を心得ていました。
空き瓶の返還金の5セントを食費にあてなければいけないような貧しさを、ハングリー精神に昇華しました。創業した会社をクビになるという驚くべき不運を、よりクリエイティブな自分になるための燃料にしました。
ジョブズが仏教にシンパシーを持っていたのは有名な話です。
「この世のすべては修行であり、何ひとつ無駄なことはない」という仏教的な価値観が、彼には自然と根づいていました。

毎日毎日、つらいことやイヤになることばかり。心身の疲れがあまりにも溜まってくると、どうしてこんな世に生まれてきたのだろうと、親を恨みたくなるときすらあるでしょう。
しかし、何十年も生きていると、思わぬところで昔の経験が活きてくる場面に遭遇することも珍しくありません。今の苦しさは試練。試練があるのは、この世が修行場だからこそ。乗り越えた先には、必ず大きな実がなっています。

エンジンオイル、OEMの仲間の経営塾より

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『人生はあきらめるとうまくいく』

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ひろさちや

私はいつも財布にサイコロを入れて持ち歩いています。何かに迷ったら、奇数か偶数かで決めます。天丼かうな丼かどちらにしようか…。そもそも迷うというのは、どちらでもいいから迷うのです。うなぎが嫌いなら、迷ったりしません。そいういうときには、デタラメに決めるにかぎります。デタラメというと、誤解を招きそうですが、これは「出たら目」。出た目に従う。出したのはほとけ様なのだから、ほとけ様に決めてもらう、ということです。 

大学の先生をやっていたとき、ときどき学生が相談に来ました。「この大学やめようと思っているんです。来年東大を受けようかと…」。毎年5月くらいになると、相談者は増えます。「君、大学やめてもいいの?」「やめてもいいんです」「この大学にのこってもいいの?」「はい、のこってもいいんです」とこんな調子です。「四分六ぐらい?どちらの分が多いの?」「いえ、五分五分です」私はサイコロをとりだして、学生に渡します。「振ってごらん。奇数が出たらやめる、偶数が出たら残る」すると学生はあわてます。「先生、ふざけないでください。僕はまじめに相談に来たんですよ」「私もまじめに答えているんだよ。あなたの人生にどっちがよかったかなんて、絶対にわからない」と言い返す。

人間には、未来を決める権利などありません。よかったという判断もつかない。大学受験に合格してよかったと言うけれど、同級生と相性が悪くていじめられて自殺する青年もいます。一年浪人して恋人に出会う可能性もある。現役で入ったら、実力がなくて、中退するかもしれない。一年間地力をたくわてから入った方がいいこともある。どちらがいいかなんてわかりません。私たちには未来はわからないのです。キリスト教でもイスラム教でも、未来について知っているのは神だけです。

キリスト教ではこう言います。「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけでじゅうぶんである」
イスラム教ではこう言います。「もし神がお望みならば…」これは「イン・シャー・アッラー」という言葉で、自分たちが未来を語るときには必ずこれを付け足すのです。「私は明日これこれのことをすると言ってはならない、ただしイン・シャー・アッラーとつければよい」だからイスラム圏の飛行機に乗ると、イン・シャー・アッラー」と言ったあとで「この飛行機はあと十五分で成田空港に到着します」とアナウンスが流れます。つまり、神様が望むならこの飛行機は到着します。もしもダメだったら墜落するかもしれません、ということです。

自分の未来を決める権利は、神様にしかありません。私たちは権利放棄でいいのです。これが宗教の教えです。学生にもこの話をして、どちらがいいかなどわからない、ほとけ様、あるいは神様、それとも宇宙意志にお任せして、デタラメに決めたらいいと言うのです。にもかかわらず、彼らは「先生のアドバイスが欲しい」と言う。
「今はしおらしくそんなことを言っているけども、あとになって何かつまずいたときには、必ず私を恨むようになる。先生にあんなこと言われたから、俺はこうなったんだって」私はそんな相談には乗りたくありません。
あなたが自分で決めるほかない。でも、自分で決められないから悩んでしまう。だから、サイコロで決めなさいと言うのです。でも、二十人相談に来て、サイコロを振ったのは二人くらいです。

エンジンオイル、OEMの仲間の経営塾より

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人間は、宗教を持つから動物と区別される

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ひろさちや(宗教評論家)

人間に宗教は必要なのでしょうか?わたしには、「人間に宗教は必要か」という問い自体が、ナンセンスに思えます。というのは、人間は宗教を持つから動物と区別されるとわたしは思っているからです。
宗教を持つから人間になると、わたしは思います。「動物プラス宗教イコール人間」であり、逆に言えば、「人間マイナス宗教イコール動物」と言うことです。

動物とは、エコノミック・アニマルということもできましょう。宗教を持たない人間は、「損か得か」の経済原理でしか動きません。他人が困ろうが、他国の人が苦しんでいようが、自分たちだけが繁栄すればいいのだという生き方―それがエコノミック・アニマルです。
そういう動物に、日本人は成り下がっていると言えないでしょうか。わたしたちは一所懸命に働くことが美徳と思って、やみくもに働きます。しかし、「働く」ということの意味は、自分の幸せのため、自分の家族の幸せのため、周りのみんなの幸せのためにあります。

ところが、日本人は、働くことの原点を忘れて、いつしか「企業の奴隷」や「企業の飼い犬」になってしまったのだと思います。会社に飼い慣らされた家畜同然の「社畜」ということばさえあります。「売り上げがあがればいい。儲かれば何をやってもいい。自分の会社さえよければいい。他がどうなろうと構わない」
そういう考え方が、日本の社会では支配的になっています。

諸悪の根源は、そこに集約されるんじゃないでしょうか。昔、雪印食品が、輸入牛肉を国産と偽って、狂牛病対策事業の対象肉として業界団体に買い取らせていました。また、大手の食品会社や総合商社、あるいは全農など一流企業といわれるところが、鶏肉や豚肉の産地を偽装するなど、消費者を欺く行為を平然と行っていました。これらは、組織ぐるみの犯罪行為です。
わたしは不思議でならないのですが、自分の会社がそういうごまかしをしていることを、社員は知っていたはずです。ところが、どこの会社からも、内部告発はありませんでした。外務省の不祥事にしても、職員は知っていたはずなのに、暴露されるまでは黙っていました。
彼らは、国民や消費者に迷惑をかけていることに対して、何の罪悪感も感じなかったのでしょうか。自分の勤めている会社が、消費者をだますようなことをしていれば、「そんなことをしてはいけない」と止めるべきだし、「そんなことをするのであれば、この会社は辞めます」というのが普通でしょう。それが、まっとうな人間です、

でも、いまの社会では、逆に「そんなことを言う人間がおかしい」と思われてしまいます。それほどまでに、労働者が企業の飼い犬になっているのです。そして、平気で、弱いものいじめをしたり、法律を破るようなことをしています。
これでは、まるでヤクザの集団と同じではないでしょうか。ヤクザの集団に属していれば、親分がいかに理不尽なことを言おうと、「それは、ご無理ごもっとも」で反対することはできません。
人間として幸せになるためには、悪いことをする企業の味方をしない、そういう会社には属さない。わが社だけが大事で、他はどうなってもいいというヤクザの集団のような意識を捨てることです。

わたしたちは、企業のために生きているのではありません。自分と家族の幸せのために働いているのであって、企業の奴隷や飼い犬ではない。1人1人が、そういう自覚を持つことが大事です。そのための規範となるものが、宗教であり道徳なのです。
競争原理とは、あらゆる人が幸せになってはならないという考え日本は、「企業型」の資本主義社会です。国家をあげて、企業型の資本主義を応援しています。学校教育も、企業型の資本主義の教育に歪められています。教育の本来の目的は、子どもを幸せにすることです。人間として幸せな生き方を教えることにあります。

ところがいまの学校教育は、企業人を作るための場になっています。企業が買ってくれる人材、企業向きの人間を作ることが教育の根幹になっています。企業に入れば、企業の価値観にどっぷり浸ってしまう人間が求められます。企業の価値観にどっぷり浸る人間とは、企業の奴隷になるということです。
そして、日本の社会の価値観は、競争原理です。企業は競争に勝てる人間を欲しがっています。そのため、競争に耐えられない人間は、排除しようとします。知的障害児だとかハンディキャップのある子どもは、排除されてしまいます。わたしたちは、「競争は当たり前じゃないか。競争しなければやっていけないんだ。競争がなくなれば、日本の社会はつぶれてしまう」と、競争によって成り立つ社会を作ってきました。ここに、さまざまな問題の根源があると思います。

競争原理とは、「競争に勝った者が幸せになれる。競争に負けた者は、幸せになる権利はない」という考えです。しかしそれは、「競争に勝った者が不幸になって、競争に負けた人間が幸せになれるのはおかしい」という考えでもあります。勝つ者がいれば当然に負ける者がいます。だから、半分の人間しか幸せになれないことになります。つまり「みんなが幸せになれるはずがない」というのが競争原理ですね。

仏さまの願いは、――あらゆる人が幸せになってほしい。すべてのものが幸せになってほしいということです。「すべて」ですから、人間ばかりではありません。動物も植物も含めて、「生きとし生けるもの」すべてです。ところが日本の社会は、「あらゆる人が、幸せになってはならない」という競争原理によって成り立っている社会です。

こういう社会は、おかしな社会だと思いませんか。日本の民話に「ウサギとカメ」の話がありますが、日本人は諦めずに最後まで努力をしたカメを、立派だと思っています。しかし、わたしはこれは、弱肉強食の原理だと思っています。
インド人に、ウサギとカメの話をしたところ、「ウサギはノープロブレム、カメに問題がある、カメは寝ているウサギの横を通り越したとき、どうして起こしてやらなかったのか」と言いました。
「それは競走だから仕方がない」とわたしが言いますと、そのインド人は「競走だからといって、見捨てていいわけがない。ひょっとしたら病気で苦しんでいたのかもしれないじゃないか。怠けて昼寝しているのか、病気で苦しんでいるのか、起こしてみてはじめてわかることなんだ。
自分の勝つことばかり考えているやつがおまえは好きなのか」と言いました。
わたしたちは、まさにアニマルになっているから、カメは立派だ偉いと思うわけです。しかし、ほんとうにカメは立派なのか、もしかしたらおかしいんじゃないかと、そこに気がつくのが宗教の役目だと思います。

エンジンオイル、OEMの仲間の経営塾より

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