佚斎樗山
ネズミ獲りの名人である「古猫」が教えを説く。
ある日部屋に戻ったら、そこに猫ほどの大きさの大鼠がいた。
これを退治しようと、技に長けた「黒猫」、
強力な気を持って相手を圧倒する「虎猫」、
相手の心に寄り添って和らげてしまう「灰猫」
が挑むのだが、いずれも虚しく、逆襲されてしまう。
刀折れ矢尽きた勝軒がほとほと困っていると、
そこに締まりのない顔をして、毛並みは悪く、躰はふやけ、
動きも緩慢の「古猫」が現れ、
いとも簡単に大鼠を仕留めてしまう。
なぜ訓練を重ねた強い猫たちが破れ、古猫が勝てたのか。
「現実とは限りのないものなのじゃ。
鼠の姿や振る舞いもまた無限。ならばどうする?
技を限りなく増やすのか?」
「現実の無限には、こちらも無限で応じねばならぬ。
そのために身につけなければならぬものこそが、
道理なのじゃ。
鼠を捕るための正しい道理さえ、身のうち心のうちにあれば、
必要な技など自ずから出る。
自分の知らない技でさえ限りなくな。
こうなって初めて、
現実の無限に無限で応じることができるじゃろう」
「わかっておらぬな。強い弱いなどというのは、
必ず移り変わる。
自分だけがいつまでも強く、
敵が皆弱いなどということがあるわけがない。
おぬしの気がいかに強くとも、
必ずそれより強い気の持ち主は現れるのじゃ。
どんなに強くとも、
強さなどというのは、その程度のものよ」
「浩然の気は、心の内の道理の赴くままに振る舞うことで、
どんどん活き活きと働くようになる。
相手より強いか、どうかは問題ではない。
どれだけ道理に寄り添うかなのじゃ」
「どのようにする、だと。それがまたいかんのじゃ。
よいか。考えず、しようとせず、
ただ心の『感』に従って動くのじゃ。
そうすれば、その自然の中に融け込んで形はなくなる。
形さえなくなれば、もはや天下に敵無しとなるのじゃ」
「道理」の純粋さを高めよ
「そうじゃろうな。そもそもおぬしは勝つことにこだわり、
その先に何を求めておるのかのう。名声か、金か?」
「心にたとえわずかでも、こうしたい、
というこだわりがあれば、それは形となって現れる。
そして、その形こそが、
敵だ己だなどという、くだらぬ構図を生む。
果たして無意味な技比べが始まりじゃ。
これでは、自在な変化などできようはずがない」
「よいか。現実も己が心も、その底にあって
動かしておるのは道理なのじゃ。
道理には決まった形などない。
そこにあるのは変化だけじゃ。
だからこそ、現実は移り変わり、
それに従って心も自然と移り変わる。
変な邪魔さえしなければな」
「『そこ』と『ここ』を分かつのと同じく、
生と死も、分かつから恐ろしいのであろうか」
「そもそも、生と死を分けて、なんの意味がある。
それを分かとうと分かつまいと、死ぬ時は死ぬ。
そこを分けて残るのは、苦しみや恐れだけではないか。
そして、その苦しみや恐れは、
まだ死んでもいないうちから、『死にたくない』
『死なないためには』などと頭でっかちで余計な形を生む。
そして、道理の自然な変化から人を引き離し、生を害する」
「教えとは畢竟、
相手が自分で見ようとしない場所を指摘することじゃ」
エンジンオイル、メーカー、OEM仲間の経営塾より