ユヴァル・ノア・ハラリ
昔、高校の教頭先生に、こんな質問をされたことがあります。
「将来稼げる人になるために、一番学ぶべきものは何か?」
人類の今までがわかれば、これからがわかる。
これからがわかれば、お金が稼げる。と、
そういうロジックでした。
タイトルの『ホモ・デウス』とは、神(=デウス)を
目指す人類という意味で、不死と幸福、神性の獲得を
目標とする今後の人類の方向性について述べています。
すなわち、歴史は空白を許さないということだ。
飢饉や疫病や戦争が減ってきているとしたら、
人類が取り組むべきことのリストで、
何かが必ずそれらに取って代わるだろう
前例のない水準の繁栄と健康と平和を確保した人類は、
過去の記録や現在の価値観を考えると、
次に不死と幸福と神性を標的とする可能性が高い
死を避けられない私たちは、日々、命の危険を冒している。
どのみちいつか命が終わることを承知しているからだ。
だから私たちはヒマラヤ山脈に登りに行くし、海で泳ぐし、
通りを渡ったり外食したりといった危険なことを
他にも多くする。
だが、もし自分が永遠に生きられると思っていたら、
無限の人生をそんなことに賭けるのは馬鹿げている
寿命が150年の女性を想像してほしい。
40歳で結婚しても、まだ110年残っている。
その結婚生活が110年続くと見込むのは、
果たして現実的だろうか?
これまでのところ、人間の力の増大は主に、
外界の道具のアップグレードに頼ってきた。
だが将来は、人の心と体のアップグレード、
あるいは、道具との直接の一体化に
もっと依存するようになるかもしれない
2015年の初めに、ストックホルムにある
エピセンターというハイテクオフィスに勤務する数百人が、
手にマイクロチップを埋め込んだ。
チップは米粒ほどの大きさで、
各自のセキュリティ情報を保存してあるので、
従業員は手を振るだけでドアを開けたり、
コピー機を操作したりできる。
彼らは近いうちに、支払いも同じやり方で
できるようにすることを望んでいる
人命は神聖であるという、妥協の余地のない
人間至上主義の信念のせいで、
私たちは「このどこが神聖なのか?」と
問わざるをえない哀れな状態に至るまで
人を生き続けさせる
私たちは突然、いわゆる「下等な生き物」の運命に、
今までにない関心を見せている。
それはひょっとすると、私たち自身が「下等な生き物」の
仲間入りをしそうだからかもしれない。
もしコンピュータープログラムが
人間を超える知能と空前の力を獲得することがあれば、
私たちはそのようなプログラムを人間以上に
高く評価し始めるべきなのか?
個人的な付き合いは、喧嘩を通してのものであれ
性交を通してのものであれ、
大規模な協力の基盤を構築しえない
サピエンスが(敵対的なもの、好色なもののどちらでも)
密接な関係を結べる相手は150人が限度であることが、
調査でわかっている
物語は道具にすぎない。だから、
物語を目標や基準にするべきではない。
私たちは物語がただの虚構であることを忘れたら、
現実を見失ってしまう。
すると、「企業に莫大な収益をもたらすため」、
あるいは「国益を守るため」に戦争を始めてしまう。
企業やお金や国家は私たちの想像の中にしか存在しない。
私たちは、自分に役立てるためにそれらを創り出した。
それなのになぜ、気がつくと
それらのために自分の人生を犠牲にしているのか?
人類は「不死」「幸福」「神性」へと向かう。
では、その目指す過程で何が起こるのか。
本当に人類は不老不死、幸福、そして神になれるのか?
人間が向かう方向がわかれば、先回りができる。
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